今年ももうすぐ終わる。
今、年の暮れに思うこと、それは「バランス」について。
幸せに生きる条件は、「バランス」だと思う。
時間の使い方、ひととの付き合い方、感情のコントロール、自己表現、あらゆる距離感。
あたしの生涯の目標は、たぶん、このバランス感覚なるものを、鍛え上げることにあるのではないかと思う。
Blue Birdsのメンバーを見ていて思う。みんな非常に、優れたバランス感覚を持っているなあ、と。
完全なあたしの私見ながら、そのバランス感覚は本当にみんな素晴らしく、友であり同志でありながら、とても尊敬してしまう。
きらきらとした未来が、垣間見える。そういうバランス感覚を持った子たちだと思う。
あたしは、バランス感覚に欠けた人間であると、最近よく思う。これは良い意味でも悪い意味でもないけれど、バランス感覚は、幸せに生きる条件だと思うので、そういう意味では、バランス感覚が欠けていることはよろしくないと思う。物事の加減というものが、どうにも下手すぎる。
自分で言うのもどうかと思うけれど、何かいつも、ひととの感覚のズレを感じることが多いし、どちらかというとあたしは芸術家肌なのではないかと思う。(繰り返しになるけれど、別に良い意味ではない。)
つまり、一般から、逸脱した感覚を持っている気が、何となくするのです。
必要以上に、深く考える。結果的に、優柔不断になり、決断力を欠く。
哲学を専攻した方が良かったのではないかという程、物事をいちいち根源的なレベルで考えてしまう頭でっかち人間。そして、自分とは何なのかという問ばかり考えている自我の肥大。
激しい凹凸の感情。アップなときは、気持ち悪いほどうきうきして、ユートピアの妄想したり。
ダウンなときは、そりゃもう、ひどい。
本当は、ひどく単純すぎる人間なのかもしれない。前近代的で、原始的な、感性人間。
けれどそれでは現代の世の中に合わないので、複雑な思考をするように、いつの間にかそういうくせをつけたのかもしれない。
感性と理性の両極端に引っ張られて、バランスをとることに疲れている。
疑問を持ち過ぎる。感じすぎるし考えすぎる。
そんな凹凸の感情のあたしは、気まぐれに人からのメールを返したり返さなかったりで、不義理をしてしまうこともあって、そんなときは、後から、本当に、大変、申し訳ないと感じる。
来年の目標は、自分の中のバランス感覚を養うことだ。
自分をコントロールできなくて、ひとの役に立つなんてできない。
ごく普通のバランス感覚、それこそ今一番大切なもの。
もやもやとした苦しみの根っこが、少しずつ少しずつ、わかってきたような気がする。
2009年12月29日火曜日
ひとの理想と、想像力
背伸びしていた。
無理をしていた。
そのままの自分を否定していた。
その感は今もぬぐい切れていない。
自由はどこかにあるのではなく、ここにあるはずなのだ。
(文字で書く自由は何だか薄っぺらい。)
一番自由なのは、頭の中だと思う。
人の頭の中はいつだって自由。
茫漠とした想像。
あたしは確信したんだ。
人の想像力の計り知れなさ。
ものすごい理想。ものすごい虚実。
生きる原動力みたいなもの。
人は関わり合って生きているから、
自分の頭の中で繰り広げられる想像を、戦わせることはナンセンスだと思う。
理想と理想がぶつかり合うときに、争いは起こってしまう。
こんな感じいいなと思う理想それ自体は崇高なのに、
それがぶつかり合うことは醜い。
だからやっぱり、想像力だ。
他者の理想への想像力。
無理をしていた。
そのままの自分を否定していた。
その感は今もぬぐい切れていない。
自由はどこかにあるのではなく、ここにあるはずなのだ。
(文字で書く自由は何だか薄っぺらい。)
一番自由なのは、頭の中だと思う。
人の頭の中はいつだって自由。
茫漠とした想像。
あたしは確信したんだ。
人の想像力の計り知れなさ。
ものすごい理想。ものすごい虚実。
生きる原動力みたいなもの。
人は関わり合って生きているから、
自分の頭の中で繰り広げられる想像を、戦わせることはナンセンスだと思う。
理想と理想がぶつかり合うときに、争いは起こってしまう。
こんな感じいいなと思う理想それ自体は崇高なのに、
それがぶつかり合うことは醜い。
だからやっぱり、想像力だ。
他者の理想への想像力。
2009年12月17日木曜日
理想の自分がどんな姿かなんて、まだはっきりわからない。
ぼんやりとなんとなく、こういう風になりたい、とか、こういう世界に携わりたい、と思うけれど、それがピンポイントで明確なわけじゃない。
だけど、何となく、自分の中にある野心のようなものを捨てたくないな、と思う。
あたしは、強く思う。「世界」とつながっていたい、と。
そして、自分の目を、心を、ごまかしたくない、と。
抽象的だけれど、そう思う。
学べば学ぶほど、わかるこの世界の歪み。モノに溢れた「豊かな」生活の裏、もしくは、延長線上にある圧倒的多数の貧困や争い。汚染。
この、世界のおかしなあり方の根源にあるキーワードは、「近現代」だということを、最近よく思う。
「近現代」という時代のことを、もっともっと知らなければいけないし、考えなければいけない、問い直さなければいけないと思う。
あくまで冷静に、陶酔なんかに浸ることなく。
あーーーー。
伝えたい、伝えなきゃ。
おかしいことには、おかしいと言っていかなきゃ。
そして何より、変えるために、行動し、実践し、示していかなきゃ。
今は、物事を見誤らない訓練期間。
そして、伝えること、実践すること、その技術を覚えるステップアップが次に来る。
気持ちは焦るけれど、
経済的に自立をしなければ、あたしはモノが言える立場にはなれないので、
まずは唇噛みつつ、我慢して、
経済的自立と、社会を知るための就職だ。
資本主義にどっぷり加担はご免だけど笑、上記の目的を果たすために、まずは飛び込むしかない。
NGOだって何だって、まずは実務経験。
それから、やりたいことを、やりたいように、やりたいだけがむしゃらにやるのです。
行きたいところ、見てみたいものだって、たくさんたくさんたくさん、あるし………。
と、こんなこと書きつつ、ニッチを探して非営利団体とかばかり、受けたりして。。。
日本出ちゃったりして。笑
それはないかー。
ぼんやりとなんとなく、こういう風になりたい、とか、こういう世界に携わりたい、と思うけれど、それがピンポイントで明確なわけじゃない。
だけど、何となく、自分の中にある野心のようなものを捨てたくないな、と思う。
あたしは、強く思う。「世界」とつながっていたい、と。
そして、自分の目を、心を、ごまかしたくない、と。
抽象的だけれど、そう思う。
学べば学ぶほど、わかるこの世界の歪み。モノに溢れた「豊かな」生活の裏、もしくは、延長線上にある圧倒的多数の貧困や争い。汚染。
この、世界のおかしなあり方の根源にあるキーワードは、「近現代」だということを、最近よく思う。
「近現代」という時代のことを、もっともっと知らなければいけないし、考えなければいけない、問い直さなければいけないと思う。
あくまで冷静に、陶酔なんかに浸ることなく。
あーーーー。
伝えたい、伝えなきゃ。
おかしいことには、おかしいと言っていかなきゃ。
そして何より、変えるために、行動し、実践し、示していかなきゃ。
今は、物事を見誤らない訓練期間。
そして、伝えること、実践すること、その技術を覚えるステップアップが次に来る。
気持ちは焦るけれど、
経済的に自立をしなければ、あたしはモノが言える立場にはなれないので、
まずは唇噛みつつ、我慢して、
経済的自立と、社会を知るための就職だ。
資本主義にどっぷり加担はご免だけど笑、上記の目的を果たすために、まずは飛び込むしかない。
NGOだって何だって、まずは実務経験。
それから、やりたいことを、やりたいように、やりたいだけがむしゃらにやるのです。
行きたいところ、見てみたいものだって、たくさんたくさんたくさん、あるし………。
と、こんなこと書きつつ、ニッチを探して非営利団体とかばかり、受けたりして。。。
日本出ちゃったりして。笑
それはないかー。
2009年12月11日金曜日
2009年12月2日水曜日
未来志向、思考。
最近なかなかブログを書く時間がとれなかった。日々思うこと、考えることを「書きたい、書きたい」という気持ちはあったのだけれど、その頭の中にあるものを言語化する前に、体が「お休み」信号を出してしまっていたのである。たいていは、ブログを書く時間より眠る時間をとったということだ。
気がつけば、もう師走。イチョウもすっかり、黄色い。
今日は、ESD(Education for Sustainable Development)論の授業で、事例を発表するために、新宿の大久保にある小学校にお話をお聞きしに行った。大久保は外国人が多く住む街で、その小学校は外国籍の子どもが多く通うので、言語や文化と教育という問題から、多文化共生といった視点で注目されることが多いけれど、地域とのつながりや環境という観点から、総合的な学習がESDの事例としても捉えられる実践的な授業がなされた小学校なのだ。
詳しい授業内容は割愛するけれども、この小学校の向かい側には「小泉八雲公園」という公園があり、(小説家の小泉八雲/ラフカディオハーンが、かつてこの街に住んでいたことにちなんで、記念の公園のような形になっている)その公園の花壇へお花を植えることや、小泉八雲の銅像をきれいにすることを、この小学校の子どもたちが参加して行い、フクロウをモチーフにした記念オブジェと碑を建てたのである。地域住民や区役所の職員、そして大学でコンクリートの研究を行う専門家をも巻き込んで、このプロジェクトは子どもたちが主体的に参加して進行していったそうだ。
そして今日はこの授業をファシリテートされた先生にお会いし、お話をお伺いした。
まず、とても熱い。とにかく熱い先生だった。
先生のお話の教育論が印象的であった。子どもが学びの主体である、ということ。授業というのは、先生と子どもが相互に学びあう場だということ等々。
そして、総合的な学習の中で行われたこのプロジェクトの、結果より大切なのは、プロセスだということ。
子どもたちが、自ら、今目の前で起きている地域の環境問題、社会問題に「気づき」、「考える」、ということ。
何をやったか、という「結果の大きさ」ではなく、大切なのは、「自分たちで社会に働きかける行動を起こすことができる」ということを「実感」できるということ。そのようなことを、先生は強調しておられた。
(BlueBirdsの活動の中で、まさに私が感じたことだなあ、と思った。)
このような、「プロセスを重視する」とか、用意された解答を覚えたり、知識を詰め込むのではなく、自分たちの身の回りで起きていること、教科書に書かれたことではなく「今」「そこで」起きていることを考えるというようなことは、皆ESD的な学びの要素であり、従来の学校教育へのアンチテーゼとも言える。
今、教育の場にも、社会にも、必要とされているのは、このような、自分たちでアイデアを生み出す創造性であったり、上意下達ではなく相互に対話する姿勢であったり、身の回りや世界のことと自分を「つなぐ」ということであったり、人とつながって何かをすることではないか、と本当に思う。
今までバラバラだったものがつながり直す、ということがとても大切ではないかと思う。
政治でも、縦割り行政の問題点はよく指摘されるけれど、縦割り、ではなく、横につながること、が必要だと思う。
学校と地域と行政、NPO/NGOと企業、大学(研究)とNGO/NPO(実践)、等々…
教育の中身も、教科横断的な学び、というものが求められてる、と思う。
それを意図して創設されたのが「総合的な学習」の時間だけれど、今日お話して下さった先生は、また総合学習の時間が減らされるということでがっかりなさっていた。ESDのような学びが日本に広まれば、日本の教育はとても良くなると思うけれど、現状を考えると非常に悲観的だ、と。
先生の、現場主義、私はそこから、社会から見落とされがちだけれど、とても重要なものを感じた。当たり前だけれど、現場が先にあるのだ、というシンプルで、一番大切なこと。
ともすると「誰かの言葉」で語られた二次的、三次的な情報で物事を判断してしまいがちな危うい自分に気づき、はっとさせられた。わかっているけれど、「知ったかぶり」は簡単にできてしまうから、恐ろしい。違うよ、違う。やっぱり「現場」が先だ。
二度と同じ授業はできるものではない、と先生はおっしゃっていた。その言葉に、「現場」の意味は凝縮されているような気がする。
画一的なマニュアルが先にあるのではない。理論が先にあるのではない。
誰もが答えを持たない、さまざまな問題を社会が抱えている今日、「解がわからない」という点で、誰もが同じ立場にあるのではないかと思う。
でも、だからこそ、ひとりひとりが知恵を出し合うことが必要であり、相互に対話し合い、つながり合うことが、必要なのだと思う。完璧な理論もマニュアルも誰も持っていないけれど、課題という現場があり、その現場現場で、それぞれの人間が悩み、考え、人びとが話し合って知恵を出し合い借り合い学びあって、試行錯誤して進んでいく、そういうときなのではないか。
そんなことを考える、今日この頃。
ああー、書ききれない。笑
うまくまとまらないけれど、「つながり」「対話」とかって、ホント、キーワードだと思う。
その大切さを、最近よく実感する。
何で大学院の授業は面白いのだろう、と考えたとき、顔の見える距離で先生や他の受講者の意見を聞いたり、交換し合えるということが、大きいのではないかと思ったのだ。私は、そのように、きちんと自分の意見を言い、聞いてもらい、他の人の意見を聞く、という経験が、今まで少なかったのかもしれない。だから、刺激的だし、学ぶことが、とても多いのだ。そして何よりそういう場は、楽しい。
大きい声を出せる人の意見が通ったり、誰かの意見が排除されるのではなく、そこにいる人が皆ほぼ対等な立場でお互いに意見を言い合えるというのは、それだけで、何か創造的な場であり、「癒し」とでも言えるような効果が、人と人の間に生まれるような気がする。もちろん、人の意見にきちんと耳を傾ける、という倫理的な姿勢が欠けてしまっては成り立たないけれど。
ああ、書ききれない……笑笑
いつの間にか真夜中になってしまったので、また改めて、いろいろ書きたいと思う。
まだまだ、たくさんあるのだけれど…。
気がつけば、もう師走。イチョウもすっかり、黄色い。
今日は、ESD(Education for Sustainable Development)論の授業で、事例を発表するために、新宿の大久保にある小学校にお話をお聞きしに行った。大久保は外国人が多く住む街で、その小学校は外国籍の子どもが多く通うので、言語や文化と教育という問題から、多文化共生といった視点で注目されることが多いけれど、地域とのつながりや環境という観点から、総合的な学習がESDの事例としても捉えられる実践的な授業がなされた小学校なのだ。
詳しい授業内容は割愛するけれども、この小学校の向かい側には「小泉八雲公園」という公園があり、(小説家の小泉八雲/ラフカディオハーンが、かつてこの街に住んでいたことにちなんで、記念の公園のような形になっている)その公園の花壇へお花を植えることや、小泉八雲の銅像をきれいにすることを、この小学校の子どもたちが参加して行い、フクロウをモチーフにした記念オブジェと碑を建てたのである。地域住民や区役所の職員、そして大学でコンクリートの研究を行う専門家をも巻き込んで、このプロジェクトは子どもたちが主体的に参加して進行していったそうだ。
そして今日はこの授業をファシリテートされた先生にお会いし、お話をお伺いした。
まず、とても熱い。とにかく熱い先生だった。
先生のお話の教育論が印象的であった。子どもが学びの主体である、ということ。授業というのは、先生と子どもが相互に学びあう場だということ等々。
そして、総合的な学習の中で行われたこのプロジェクトの、結果より大切なのは、プロセスだということ。
子どもたちが、自ら、今目の前で起きている地域の環境問題、社会問題に「気づき」、「考える」、ということ。
何をやったか、という「結果の大きさ」ではなく、大切なのは、「自分たちで社会に働きかける行動を起こすことができる」ということを「実感」できるということ。そのようなことを、先生は強調しておられた。
(BlueBirdsの活動の中で、まさに私が感じたことだなあ、と思った。)
このような、「プロセスを重視する」とか、用意された解答を覚えたり、知識を詰め込むのではなく、自分たちの身の回りで起きていること、教科書に書かれたことではなく「今」「そこで」起きていることを考えるというようなことは、皆ESD的な学びの要素であり、従来の学校教育へのアンチテーゼとも言える。
今、教育の場にも、社会にも、必要とされているのは、このような、自分たちでアイデアを生み出す創造性であったり、上意下達ではなく相互に対話する姿勢であったり、身の回りや世界のことと自分を「つなぐ」ということであったり、人とつながって何かをすることではないか、と本当に思う。
今までバラバラだったものがつながり直す、ということがとても大切ではないかと思う。
政治でも、縦割り行政の問題点はよく指摘されるけれど、縦割り、ではなく、横につながること、が必要だと思う。
学校と地域と行政、NPO/NGOと企業、大学(研究)とNGO/NPO(実践)、等々…
教育の中身も、教科横断的な学び、というものが求められてる、と思う。
それを意図して創設されたのが「総合的な学習」の時間だけれど、今日お話して下さった先生は、また総合学習の時間が減らされるということでがっかりなさっていた。ESDのような学びが日本に広まれば、日本の教育はとても良くなると思うけれど、現状を考えると非常に悲観的だ、と。
先生の、現場主義、私はそこから、社会から見落とされがちだけれど、とても重要なものを感じた。当たり前だけれど、現場が先にあるのだ、というシンプルで、一番大切なこと。
ともすると「誰かの言葉」で語られた二次的、三次的な情報で物事を判断してしまいがちな危うい自分に気づき、はっとさせられた。わかっているけれど、「知ったかぶり」は簡単にできてしまうから、恐ろしい。違うよ、違う。やっぱり「現場」が先だ。
二度と同じ授業はできるものではない、と先生はおっしゃっていた。その言葉に、「現場」の意味は凝縮されているような気がする。
画一的なマニュアルが先にあるのではない。理論が先にあるのではない。
誰もが答えを持たない、さまざまな問題を社会が抱えている今日、「解がわからない」という点で、誰もが同じ立場にあるのではないかと思う。
でも、だからこそ、ひとりひとりが知恵を出し合うことが必要であり、相互に対話し合い、つながり合うことが、必要なのだと思う。完璧な理論もマニュアルも誰も持っていないけれど、課題という現場があり、その現場現場で、それぞれの人間が悩み、考え、人びとが話し合って知恵を出し合い借り合い学びあって、試行錯誤して進んでいく、そういうときなのではないか。
そんなことを考える、今日この頃。
ああー、書ききれない。笑
うまくまとまらないけれど、「つながり」「対話」とかって、ホント、キーワードだと思う。
その大切さを、最近よく実感する。
何で大学院の授業は面白いのだろう、と考えたとき、顔の見える距離で先生や他の受講者の意見を聞いたり、交換し合えるということが、大きいのではないかと思ったのだ。私は、そのように、きちんと自分の意見を言い、聞いてもらい、他の人の意見を聞く、という経験が、今まで少なかったのかもしれない。だから、刺激的だし、学ぶことが、とても多いのだ。そして何よりそういう場は、楽しい。
大きい声を出せる人の意見が通ったり、誰かの意見が排除されるのではなく、そこにいる人が皆ほぼ対等な立場でお互いに意見を言い合えるというのは、それだけで、何か創造的な場であり、「癒し」とでも言えるような効果が、人と人の間に生まれるような気がする。もちろん、人の意見にきちんと耳を傾ける、という倫理的な姿勢が欠けてしまっては成り立たないけれど。
ああ、書ききれない……笑笑
いつの間にか真夜中になってしまったので、また改めて、いろいろ書きたいと思う。
まだまだ、たくさんあるのだけれど…。
2009年11月13日金曜日
穴ぼこ時間
もう一ヶ月近く更新していなかった。
昨日から、本当は清里に行くはずだった。
環境教育のイベントのボランティアとして、運営のお手伝いをすることになっていたからだ。
ところが、一昨日ぐらいから、風邪かなあ、と嫌な予感を感じていたところ、世間を騒がせているインフルエンザに、まさかのタイミングでかかってしまった。
微熱だから風邪だと思っていたのに、昨日の午前中に地元の診療所で検査をしてもらったら、陽性が出てしまったのである。
清里入りを断念し、ボランティアができなくなってしまったことを申し訳なく思いつつ、どうしようもできないので、突然ぽっかり開いた穴のような休憩時間を、過ごしている。
拍子ぬけも甚だしい。もう体調も悪くないし食欲も全く衰えないのに、「インフルエンザ」という魔法の烙印が私の外出を許してくれないので、こうして家の中で静々と過ごすことしかできない。
ただそれを逆手にとれば、完全に許された猶予期間のようにも思える。
あれをしなければいけない、これをしなければいけない、早く済ませなければ…という日常の流れから完全にアウトして、「あなたはなるべく人に会わず、どこにも外出せず、家でじっとしていなさい」という指令を、病院や国のお墨つきでやっているようなものだ。とても変な感じである。
一般的に考えれば、(一見)どこも悪くなさそうな20代の若者が、家にこもってだらりとしていたら、甚だ周りの人に心配されるか眉をひそめられるか、少なくともそのどちらかだろう。
「インフルエンザ」ってのは、魔法である。私はそいつを保持しているがために、期間限定で世界と断絶している。
本当は清里で冷たい空気に触れ、お仕事に勤しんでいただろうに…
11月の清里の空気、澄んだ夜空や森を想像してみたり。
こうして家(家族にうつらぬように特に自分の部屋)にこもっているのだが、不思議と心がざわついている忙しい日常から離れているからか、心は静かで、よく本が読める。
「魔法」が解けるまで、諸々の活動は全て中止。
それまでは本を読むことを中心に、できることを淡々と、心静かに少しずつ。
昨日から、本当は清里に行くはずだった。
環境教育のイベントのボランティアとして、運営のお手伝いをすることになっていたからだ。
ところが、一昨日ぐらいから、風邪かなあ、と嫌な予感を感じていたところ、世間を騒がせているインフルエンザに、まさかのタイミングでかかってしまった。
微熱だから風邪だと思っていたのに、昨日の午前中に地元の診療所で検査をしてもらったら、陽性が出てしまったのである。
清里入りを断念し、ボランティアができなくなってしまったことを申し訳なく思いつつ、どうしようもできないので、突然ぽっかり開いた穴のような休憩時間を、過ごしている。
拍子ぬけも甚だしい。もう体調も悪くないし食欲も全く衰えないのに、「インフルエンザ」という魔法の烙印が私の外出を許してくれないので、こうして家の中で静々と過ごすことしかできない。
ただそれを逆手にとれば、完全に許された猶予期間のようにも思える。
あれをしなければいけない、これをしなければいけない、早く済ませなければ…という日常の流れから完全にアウトして、「あなたはなるべく人に会わず、どこにも外出せず、家でじっとしていなさい」という指令を、病院や国のお墨つきでやっているようなものだ。とても変な感じである。
一般的に考えれば、(一見)どこも悪くなさそうな20代の若者が、家にこもってだらりとしていたら、甚だ周りの人に心配されるか眉をひそめられるか、少なくともそのどちらかだろう。
「インフルエンザ」ってのは、魔法である。私はそいつを保持しているがために、期間限定で世界と断絶している。
本当は清里で冷たい空気に触れ、お仕事に勤しんでいただろうに…
11月の清里の空気、澄んだ夜空や森を想像してみたり。
こうして家(家族にうつらぬように特に自分の部屋)にこもっているのだが、不思議と心がざわついている忙しい日常から離れているからか、心は静かで、よく本が読める。
「魔法」が解けるまで、諸々の活動は全て中止。
それまでは本を読むことを中心に、できることを淡々と、心静かに少しずつ。
2009年10月15日木曜日
欲張り者の戯言
あたしは負けず嫌いなのかもしれない、と最近思う。
かっこ良く、きらきらしながら生きている人を見ると、羨ましい。自分はダメだ、もっともっと頑張って楽しいことを見つけてかっこ良く生きなければいけない、負けてられないわ、と思ってしまう。でも、何に対して突っ走るのかという肝心の部分が、ゆらゆらぐらぐらしているあたしは、焦るばかりだ。
ものを伝えるためのスキルと、現場経験積むぞーと思って応募したNGOのインターン、返事なかなか来ないなあと思って首を長くして待っていたのだが、落ちた。あーあ。面接ぐだってたし、仕方ないよ、と思いつつ、
くっそー、負けてたまるかあー(何に???笑)、次じゃ次ぃ~!と思う。
その反面、少々焦り。
早く行動したくて、どうしよう、どうしよう、と思う毎日。
修論のテーマ、卒業後の進路、自分の行く末…課題は山積み。
やりたいことも、たくさんあるけれど、取捨選択をうまくやらないと、人間関係も、自分の心も、ぐだぐだになってしまうことはわかっている。
どうしてあたしは、色んなことに興味を抱き、色んなことを考えちゃうんだろう…。ときどき自分がすごく嫌になる。
欲張りで密かに負けず嫌いという厄介者のあたしは、雑念を捨てて、楽しくかっこよく自分の道をゆく人生を送ることができるんだろうか。
何でもそうだけれど、まずは下積み。そう、下積みが大事ですね。それから、根気…
忍耐強く、我慢強く、根気よく、気長にやっていく能力を育てたいです。
かっこ良く、きらきらしながら生きている人を見ると、羨ましい。自分はダメだ、もっともっと頑張って楽しいことを見つけてかっこ良く生きなければいけない、負けてられないわ、と思ってしまう。でも、何に対して突っ走るのかという肝心の部分が、ゆらゆらぐらぐらしているあたしは、焦るばかりだ。
ものを伝えるためのスキルと、現場経験積むぞーと思って応募したNGOのインターン、返事なかなか来ないなあと思って首を長くして待っていたのだが、落ちた。あーあ。面接ぐだってたし、仕方ないよ、と思いつつ、
くっそー、負けてたまるかあー(何に???笑)、次じゃ次ぃ~!と思う。
その反面、少々焦り。
早く行動したくて、どうしよう、どうしよう、と思う毎日。
修論のテーマ、卒業後の進路、自分の行く末…課題は山積み。
やりたいことも、たくさんあるけれど、取捨選択をうまくやらないと、人間関係も、自分の心も、ぐだぐだになってしまうことはわかっている。
どうしてあたしは、色んなことに興味を抱き、色んなことを考えちゃうんだろう…。ときどき自分がすごく嫌になる。
欲張りで密かに負けず嫌いという厄介者のあたしは、雑念を捨てて、楽しくかっこよく自分の道をゆく人生を送ることができるんだろうか。
何でもそうだけれど、まずは下積み。そう、下積みが大事ですね。それから、根気…
忍耐強く、我慢強く、根気よく、気長にやっていく能力を育てたいです。
2009年10月11日日曜日
くりかえし、くりかえし
あたしが優しかったころ。
あたしが小さかったころ。
あたしは大きくなるにつれて、
自分のことを防御するために、
色々な人を傷つけるようになっていった。
あたしはそのことを自覚し、反省し、人を傷つけまいとするけれども、
日々の生活の中で、やっぱり人を傷つけてしまうことがある。
人は弱いんだなあ。だから繰り返してしまうんだ。
だから、何度も何度も自分を戒め、考えなおして、
繰り返し繰り返し、自分を強くする術を身につける努力をしていかないといけないんだ、と思う。
これは、終わりなき探究だ。
人生が続く限り、続いていく。
人は、忘れる生き物だ。
だから、ときどき掘り起こして、忘れちゃだめだぞ、と戒めなければいけない。
息絶えるまで休むことなく、続いていく歩み。
置いて、忘れて、思いだして、でも後戻りはできなくて。
そうやって、続いていく。
止まることなく、進まなければならない。
苦しくても、悲しくても、周りが見えないくらい夢中なときも、焦って方向がわからなくなっても、ゆったりとして穏やかな気持ちのときも。
あたしは、自由が好きで、自分本位で、勝手な人間だと思う。
だから、あっちへこっちへふらふらしながら、気まぐれな人生を送るような、そんな気がしている。
そんなだから、人の記憶には、あまり残らず、そんな人もいたよな、くらいの感じなのかな、と思う。
でも、それならそれで、あたしは良いのだ。
ただ、人を傷つけたくない、という気持ちだけは、いつも懐に入れて、生きたい。
この世界が愛おしく、人間が愛おしい。だからこそ、温かい世の中をつくるために、何か自分が貢献できることを、やっていきたいと、思っている。
まずは周りの人びとを、傷つけない努力から始めよう。
あたしが小さかったころ。
あたしは大きくなるにつれて、
自分のことを防御するために、
色々な人を傷つけるようになっていった。
あたしはそのことを自覚し、反省し、人を傷つけまいとするけれども、
日々の生活の中で、やっぱり人を傷つけてしまうことがある。
人は弱いんだなあ。だから繰り返してしまうんだ。
だから、何度も何度も自分を戒め、考えなおして、
繰り返し繰り返し、自分を強くする術を身につける努力をしていかないといけないんだ、と思う。
これは、終わりなき探究だ。
人生が続く限り、続いていく。
人は、忘れる生き物だ。
だから、ときどき掘り起こして、忘れちゃだめだぞ、と戒めなければいけない。
息絶えるまで休むことなく、続いていく歩み。
置いて、忘れて、思いだして、でも後戻りはできなくて。
そうやって、続いていく。
止まることなく、進まなければならない。
苦しくても、悲しくても、周りが見えないくらい夢中なときも、焦って方向がわからなくなっても、ゆったりとして穏やかな気持ちのときも。
あたしは、自由が好きで、自分本位で、勝手な人間だと思う。
だから、あっちへこっちへふらふらしながら、気まぐれな人生を送るような、そんな気がしている。
そんなだから、人の記憶には、あまり残らず、そんな人もいたよな、くらいの感じなのかな、と思う。
でも、それならそれで、あたしは良いのだ。
ただ、人を傷つけたくない、という気持ちだけは、いつも懐に入れて、生きたい。
この世界が愛おしく、人間が愛おしい。だからこそ、温かい世の中をつくるために、何か自分が貢献できることを、やっていきたいと、思っている。
まずは周りの人びとを、傷つけない努力から始めよう。
2009年10月7日水曜日
Modern Society
自分への不信、他人への不信、猜疑心、恨みや妬み、憎しみ、侮蔑や差別。
物質的に豊かな国を襲っている、病。
競争という価値が根幹にある社会の、病。
人のつながりが希薄になって、そこらじゅうに蔓延してしまった、病。
ひとのことを信じたいだけ。
誰かの役に立ちたいだけ。
支え合って生きたいだけ。
愛したいだけ。
普通のことを、普通に言うことは、罪でしょうか。
時間は、お金のために、存在するのでしょうか。
おかしいことは、おかしいでしょ。
心が病むのは、弱いからじゃない。
心が病んだって、当然だよ。
壊れた緻密な英知は、失われた知恵は、取り戻すことが困難で。
だから、怒りを鎮めて、新しく、つくるしかないんだ。
新しい希望を、はやく。
また、明日が来る。
物質的に豊かな国を襲っている、病。
競争という価値が根幹にある社会の、病。
人のつながりが希薄になって、そこらじゅうに蔓延してしまった、病。
ひとのことを信じたいだけ。
誰かの役に立ちたいだけ。
支え合って生きたいだけ。
愛したいだけ。
普通のことを、普通に言うことは、罪でしょうか。
時間は、お金のために、存在するのでしょうか。
おかしいことは、おかしいでしょ。
心が病むのは、弱いからじゃない。
心が病んだって、当然だよ。
壊れた緻密な英知は、失われた知恵は、取り戻すことが困難で。
だから、怒りを鎮めて、新しく、つくるしかないんだ。
新しい希望を、はやく。
また、明日が来る。
2009年10月2日金曜日
何が言いたいのかわからないけれど考えた。
持続可能な社会って??
そのためにできることって??
そんなことを、ぐるぐる考えさせられた二日間。
10月1日、2日と、国連大学で「ESDの10年・地球市民会議2009」というシンポジウムの運営ボランティアをした。シンポジウムを主催された先生方の院生である私たちはボラのお仕事をしながら各講演を聞いた。
Education for Sustainable Development:ESDについて考えるとき、いつも思うのは、環境的な視点から見た持続可能性とは何なのか、ということ。
これは非常に難しい問であると思うけれど、言えることは、このままでは本当に環境は危ないということだと思う。地球温暖化は嘘だとかそのような説も巷にあるけれど、私が今受講しているT先生の授業では、IPCCの予測でさえ、まだ甘く見積もっているという程、温暖化は深刻に進んでいるということ。
市民からの政策提言を考えるというテーマを掲げたセッションがあった。
都市で生活していると、一体どうすれば環境に負荷をかけない暮らしに近づけるのか、ということが、構造が複雑すぎるが故によくわからない。水や電気を節約するに越したことはないだろうけれど、ごみの処理は、細かく分別した方が良いのか、それともそうではないのか。何がCO2を減らすのか、何が環境にとって良いのか、ということは考えだすと複雑でよくわからなくなってくる。緻密な計算を行っていけば、それは明らかになることなのだろうが。
「環境の政策提言」ということを自分の生活からリアルに考えてみると、自分には専門的な知識がないため提言にまでいかないという、単純明快な事実に気づくのだった。
CO2は25%削減という目標が掲げられたが、それを達成するために私たちの暮らしはどのように変化していくべきなのか。
それを一刻でも早く知って社会変革していかないと、本当に、ほんとに東京沈むと思う。
セッションの中で、日本は政策提言を行うNGO/NPOへの助成をきちんと行うべきだ、という話があった。
それには納得した。適確な提言を行うことができるような専門性と志を持った市民団体が社会の在り方を変えていくのだろうと思う。
院生である自分の立場をそれに重ね合わせ、社会的意義の高い研究とは政策提言を行うことのできるくらいある分野の専門性をつけることではないか、と本当に恥ずかしながら今さらすごく合点した。それは環境分野に限らない。この世界には、「持続可能ではない」社会を現存させているさまざまな問題がある。
様々な問題を知る度、絶望的な気持ちになるけれど、教育に関して言えば、今まで主流とされてきた教育の方法は転換を迫られている、という認識は、拡がっているようだ。
と、色々と書いてみましたが、
やっぱりあたしには何ができるのだろうって、模索に模索、をしています。
あ、そうそう…
国連大学の中って、すごく綺麗なのです。
掃除が行き届いていて、イスはふかふかしてて。特に5階の会議室みたいなとこのイス。
(そいで、豆情報ですが、自販機で売ってるのは、あの1ℓfor 10ℓのお水オンリーなんですよ。)
一日目の休み時間、外に「Free Burma(ビルマに自由を)」の横断幕を持った人たちが立っていました。
国連大学の向かい側には、通いなれた、あたしの学部の大学があります。だから、そういう人たちがいるのを、学部時代何度か目にしたことがあります。
彼らの主張が、どんなものか、お話したわけじゃないから詳しくはわからないけれど、ビルマはミャンマーであり、軍事政権であり、日本のジャーナリストの長井さんという方が亡くなられたところであり、サイクロンでたくさんの被害を受けた場所でもあり……
あたしって、ホント何が書きたいのか、何が主張したいのか、途中でよくわからなくなってくるのですが、
何だろう。
とにかく、動き出さなければいけない、この世界に働きかける人間にならなければいけないって、そう、思います。
色んな真実が、同時に存在している、この世界。
今、ここで、生暖かい日本で、キーボードをカタカタ言わせている自分も真実で、
言論の自由を奪われ、監視の目に怯えながら暮らしている人がいるのも真実で、
氷河や氷山がどんどん溶けているのも真実。
ほんと、矛盾だらけです、この世界。
意図せずして、私の発することばや行動や存在が、誰かを傷つけてしまっている、と思って、ときどき、すごく悲しくて、どうしようもなくて、罪の意識みたいなものに捕らわれることがある。
望むのは、「平和な世界」とか言ってたり、思ってたりするくせに、自分という存在がそれを阻害しているじゃないか、と思うことがある。
「平和」や「暴力」ということを考え出すと、とめどなくわけがわからないけれど、
あたしはまだ、それに拘泥していきたい、と
世の中の矛盾を知りつつ、そう、思っている。
そのためにできることって??
そんなことを、ぐるぐる考えさせられた二日間。
10月1日、2日と、国連大学で「ESDの10年・地球市民会議2009」というシンポジウムの運営ボランティアをした。シンポジウムを主催された先生方の院生である私たちはボラのお仕事をしながら各講演を聞いた。
Education for Sustainable Development:ESDについて考えるとき、いつも思うのは、環境的な視点から見た持続可能性とは何なのか、ということ。
これは非常に難しい問であると思うけれど、言えることは、このままでは本当に環境は危ないということだと思う。地球温暖化は嘘だとかそのような説も巷にあるけれど、私が今受講しているT先生の授業では、IPCCの予測でさえ、まだ甘く見積もっているという程、温暖化は深刻に進んでいるということ。
市民からの政策提言を考えるというテーマを掲げたセッションがあった。
都市で生活していると、一体どうすれば環境に負荷をかけない暮らしに近づけるのか、ということが、構造が複雑すぎるが故によくわからない。水や電気を節約するに越したことはないだろうけれど、ごみの処理は、細かく分別した方が良いのか、それともそうではないのか。何がCO2を減らすのか、何が環境にとって良いのか、ということは考えだすと複雑でよくわからなくなってくる。緻密な計算を行っていけば、それは明らかになることなのだろうが。
「環境の政策提言」ということを自分の生活からリアルに考えてみると、自分には専門的な知識がないため提言にまでいかないという、単純明快な事実に気づくのだった。
CO2は25%削減という目標が掲げられたが、それを達成するために私たちの暮らしはどのように変化していくべきなのか。
それを一刻でも早く知って社会変革していかないと、本当に、ほんとに東京沈むと思う。
セッションの中で、日本は政策提言を行うNGO/NPOへの助成をきちんと行うべきだ、という話があった。
それには納得した。適確な提言を行うことができるような専門性と志を持った市民団体が社会の在り方を変えていくのだろうと思う。
院生である自分の立場をそれに重ね合わせ、社会的意義の高い研究とは政策提言を行うことのできるくらいある分野の専門性をつけることではないか、と本当に恥ずかしながら今さらすごく合点した。それは環境分野に限らない。この世界には、「持続可能ではない」社会を現存させているさまざまな問題がある。
様々な問題を知る度、絶望的な気持ちになるけれど、教育に関して言えば、今まで主流とされてきた教育の方法は転換を迫られている、という認識は、拡がっているようだ。
と、色々と書いてみましたが、
やっぱりあたしには何ができるのだろうって、模索に模索、をしています。
あ、そうそう…
国連大学の中って、すごく綺麗なのです。
掃除が行き届いていて、イスはふかふかしてて。特に5階の会議室みたいなとこのイス。
(そいで、豆情報ですが、自販機で売ってるのは、あの1ℓfor 10ℓのお水オンリーなんですよ。)
一日目の休み時間、外に「Free Burma(ビルマに自由を)」の横断幕を持った人たちが立っていました。
国連大学の向かい側には、通いなれた、あたしの学部の大学があります。だから、そういう人たちがいるのを、学部時代何度か目にしたことがあります。
彼らの主張が、どんなものか、お話したわけじゃないから詳しくはわからないけれど、ビルマはミャンマーであり、軍事政権であり、日本のジャーナリストの長井さんという方が亡くなられたところであり、サイクロンでたくさんの被害を受けた場所でもあり……
あたしって、ホント何が書きたいのか、何が主張したいのか、途中でよくわからなくなってくるのですが、
何だろう。
とにかく、動き出さなければいけない、この世界に働きかける人間にならなければいけないって、そう、思います。
色んな真実が、同時に存在している、この世界。
今、ここで、生暖かい日本で、キーボードをカタカタ言わせている自分も真実で、
言論の自由を奪われ、監視の目に怯えながら暮らしている人がいるのも真実で、
氷河や氷山がどんどん溶けているのも真実。
ほんと、矛盾だらけです、この世界。
意図せずして、私の発することばや行動や存在が、誰かを傷つけてしまっている、と思って、ときどき、すごく悲しくて、どうしようもなくて、罪の意識みたいなものに捕らわれることがある。
望むのは、「平和な世界」とか言ってたり、思ってたりするくせに、自分という存在がそれを阻害しているじゃないか、と思うことがある。
「平和」や「暴力」ということを考え出すと、とめどなくわけがわからないけれど、
あたしはまだ、それに拘泥していきたい、と
世の中の矛盾を知りつつ、そう、思っている。
2009年9月27日日曜日
look at what is going on in the neighboring country.
Today, I went to a seminar which was held for the people to study about the issue of Tibet.
I think we, japanese people have to know more about this issue, which is too serious for us to be indifferent to, and as I knew, I already have been the one who have the responsibility to consider, say, and do something for this issue.
現在日本では、平和的なデモを路上で行うことで、不当に逮捕されたり拘束されたり、ましてや暴行を加えられるなんてことは基本的にないはずである。それは言論の自由として、団結権として、人びとに認められた権利だから。
けれど、そうではない状況が世界にはある。
平和的にデモ行進を行う自由すら許されず、自分の信条に従って自由に意見表明をすることもできない。そのようなことを人びとがしようものならば、何の罪もなくても拘束され、不当逮捕や暴力や拷問にさらされ、最悪の場合死に至らしめられる危険性と隣り合わせにならざるを得ない。
色んな意見がある。色んな見方がある。どちらの側に立つかで、真実の見方は変わる…
そのような言い回しは、どんな紛争や内戦においても、必ずと言って良い程使われる言説ではないだろうか。
だけれど、それはそうだと思うけれど、
何の罪もない人びとが、凄まじい暴力を受け、命が奪われている。
そんなことに、黙っていて良いのだろうか。
そんなことは、いけないことだ。何度色々考えて、様々な意見や見方を、少ない知識量の中で逡巡させてみても、やっぱり、おかしい。
誰がどちら側とか、そういうことではなく、政治も経済も一旦横に置いて、
罪なき人びとが一方的な暴力によって犠牲になることが、私は嫌だ。
ずっとずっと、考え続けることはできないかもしれないけれど、
自分にできることを考えたかった。
ここにこうして感じたことを書くこと。とても乏しい知識量だけれど、自分の思ったことを率直に書くこと。
とにかく、書いておきたかった。
同じ、アジアの一国民。
私は、何も知らないとは言えない。知らないこともたくさんあるし、歴史的な事実についてはほぼ知識ゼロに等しいけれど、このことに関して、もう何も知らない、ということではない。
国家が併存して、自国の利益を追求し合う国際社会…
国際政治の場での、国家の利己的な行動のことなんてできれば考えたくはないけれど、罪なき人が国家の利害の下で命を奪われる戦争や紛争は嫌だ。
嫌だ、ということを、ちゃんと言えること、ちゃんと伝えられること。
「おかしい」と、声をあげて発すること。
言論の自由の許された日本で、あたしはそれを大事にしたい。
日本ではチベットに関する報道はとても少ないように感じる。
私自身何ができるかはわからないけれど、
このブログを読んでいただいた方には、日本のすぐ近くの国の中で、ひどい抑圧と暴力が、現に存在しているのだということを、私のように、まず、知っていただけたらと思います。
I think we, japanese people have to know more about this issue, which is too serious for us to be indifferent to, and as I knew, I already have been the one who have the responsibility to consider, say, and do something for this issue.
現在日本では、平和的なデモを路上で行うことで、不当に逮捕されたり拘束されたり、ましてや暴行を加えられるなんてことは基本的にないはずである。それは言論の自由として、団結権として、人びとに認められた権利だから。
けれど、そうではない状況が世界にはある。
平和的にデモ行進を行う自由すら許されず、自分の信条に従って自由に意見表明をすることもできない。そのようなことを人びとがしようものならば、何の罪もなくても拘束され、不当逮捕や暴力や拷問にさらされ、最悪の場合死に至らしめられる危険性と隣り合わせにならざるを得ない。
色んな意見がある。色んな見方がある。どちらの側に立つかで、真実の見方は変わる…
そのような言い回しは、どんな紛争や内戦においても、必ずと言って良い程使われる言説ではないだろうか。
だけれど、それはそうだと思うけれど、
何の罪もない人びとが、凄まじい暴力を受け、命が奪われている。
そんなことに、黙っていて良いのだろうか。
そんなことは、いけないことだ。何度色々考えて、様々な意見や見方を、少ない知識量の中で逡巡させてみても、やっぱり、おかしい。
誰がどちら側とか、そういうことではなく、政治も経済も一旦横に置いて、
罪なき人びとが一方的な暴力によって犠牲になることが、私は嫌だ。
ずっとずっと、考え続けることはできないかもしれないけれど、
自分にできることを考えたかった。
ここにこうして感じたことを書くこと。とても乏しい知識量だけれど、自分の思ったことを率直に書くこと。
とにかく、書いておきたかった。
同じ、アジアの一国民。
私は、何も知らないとは言えない。知らないこともたくさんあるし、歴史的な事実についてはほぼ知識ゼロに等しいけれど、このことに関して、もう何も知らない、ということではない。
国家が併存して、自国の利益を追求し合う国際社会…
国際政治の場での、国家の利己的な行動のことなんてできれば考えたくはないけれど、罪なき人が国家の利害の下で命を奪われる戦争や紛争は嫌だ。
嫌だ、ということを、ちゃんと言えること、ちゃんと伝えられること。
「おかしい」と、声をあげて発すること。
言論の自由の許された日本で、あたしはそれを大事にしたい。
日本ではチベットに関する報道はとても少ないように感じる。
私自身何ができるかはわからないけれど、
このブログを読んでいただいた方には、日本のすぐ近くの国の中で、ひどい抑圧と暴力が、現に存在しているのだということを、私のように、まず、知っていただけたらと思います。
2009年9月15日火曜日
2009年9月14日月曜日
2009年9月11日金曜日
沖縄やんばる その一 空と海
8月29日~9月1日まで、大学院の授業で、沖縄の北部、やんばる(山原)と呼ばれる、緑豊かな地域の、国頭村という村に滞在した。そのあと皆と別れてからは3日まで、那覇のゲストハウスに泊まった。

やんばるの、なんて美しい夕焼け空。それと、ひとのいない海。

イノーとは、沖縄のことばで、浅瀬の環礁のことを指すらしい。二日目のプログラムで、「イノー観察」に出掛けた。足のつくところでも、水中メガネをつけて水に顔をつければ、色とりどりの美しい魚が泳ぐのが見える。
最近ブログの更新が滞っていたのは、8月29日~9月3日沖縄やんばる(授業)+那覇(延泊)、9月5日~8日山梨県清里(「つなぐ人フォーラム」ボランティア)で、ほとんど東京にいないしPCにもタッチしていなかったから。
それらのできごとで感じたこと、収めた風景たち等、少しずつアップしようと思います。
やんばるの、なんて美しい夕焼け空。それと、ひとのいない海。
イノーとは、沖縄のことばで、浅瀬の環礁のことを指すらしい。二日目のプログラムで、「イノー観察」に出掛けた。足のつくところでも、水中メガネをつけて水に顔をつければ、色とりどりの美しい魚が泳ぐのが見える。
最近ブログの更新が滞っていたのは、8月29日~9月3日沖縄やんばる(授業)+那覇(延泊)、9月5日~8日山梨県清里(「つなぐ人フォーラム」ボランティア)で、ほとんど東京にいないしPCにもタッチしていなかったから。
それらのできごとで感じたこと、収めた風景たち等、少しずつアップしようと思います。
2009年8月28日金曜日
感受性
音楽が大好きだ。
よく、よく、私の人生を振り返ってみると、私という人間は、「表現」にかかわることが、好きみたいだ。
小学校5年のとき、学芸会の劇で、主役級の役はオーディションがあった。私は受けたけど、結果希望の役にはなれなかった。
そのころ、管楽器クラブというのに入ってて、毎朝練習してた。私はフルートだった。
中学でも、引き続き音楽部に入部して、毎日フルートを吹いてた。合唱コンクールの練習も好きだった。
コース制で文系のコースは数学を一年で終えられること(数学から逃げたかったから)、そして体育祭が本当にかっこよかったことで入学を決めた高校は、部活をまわって先輩のかっこよさに惹かれてダンス部に入った。汗をだらだらかきまくって柔道場や剣道場や廊下で練習した。体育祭は応援団に入って声を枯らしてた。高校3年の文化祭は部活を引退して、クラスの劇でミュージカル「レ・ミゼラブル」で、男性役をやって歌った。実際受験勉強はその合間だったかなあ。ほぼ全エネルギーを体育祭と文化祭に注いだ最終学年だった。
常に表現することを、そういう場を、求めていた気がする。
この前、大学院の友人Jくんの主催するライブに、Blue Birdsとして出てお話させてもらったとき、久しぶりに、人前に出た。本当に久しぶりだったと思う。
舞台というものに出たことが、久しぶりの感覚だった。
なんだか、どきどきした。忘れかけていた高揚感のようなものが、自分の体に蘇ってきたような気がした。
あがり症で、心臓どきどき、手汗ぐしょぐしょ、のくせに、人に何かを伝えるということ、表現するということを、自分は求めているのかもしれない、と思った。
大学院で、前期TAをさせてもらった授業の先生が、授業で紹介していた詩。私の好きな詩。
自分の感受性くらい
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
(水内喜久雄選・著『茨木のり子詩集 落ちこぼれ』理論社、2004より)
すてき。
自分が、正しいと感じること、心地よいと感じること、何かおかしいと感じること。
そういう感受性を、自分で守っていくんだ。
よく、よく、私の人生を振り返ってみると、私という人間は、「表現」にかかわることが、好きみたいだ。
小学校5年のとき、学芸会の劇で、主役級の役はオーディションがあった。私は受けたけど、結果希望の役にはなれなかった。
そのころ、管楽器クラブというのに入ってて、毎朝練習してた。私はフルートだった。
中学でも、引き続き音楽部に入部して、毎日フルートを吹いてた。合唱コンクールの練習も好きだった。
コース制で文系のコースは数学を一年で終えられること(数学から逃げたかったから)、そして体育祭が本当にかっこよかったことで入学を決めた高校は、部活をまわって先輩のかっこよさに惹かれてダンス部に入った。汗をだらだらかきまくって柔道場や剣道場や廊下で練習した。体育祭は応援団に入って声を枯らしてた。高校3年の文化祭は部活を引退して、クラスの劇でミュージカル「レ・ミゼラブル」で、男性役をやって歌った。実際受験勉強はその合間だったかなあ。ほぼ全エネルギーを体育祭と文化祭に注いだ最終学年だった。
常に表現することを、そういう場を、求めていた気がする。
この前、大学院の友人Jくんの主催するライブに、Blue Birdsとして出てお話させてもらったとき、久しぶりに、人前に出た。本当に久しぶりだったと思う。
舞台というものに出たことが、久しぶりの感覚だった。
なんだか、どきどきした。忘れかけていた高揚感のようなものが、自分の体に蘇ってきたような気がした。
あがり症で、心臓どきどき、手汗ぐしょぐしょ、のくせに、人に何かを伝えるということ、表現するということを、自分は求めているのかもしれない、と思った。
大学院で、前期TAをさせてもらった授業の先生が、授業で紹介していた詩。私の好きな詩。
自分の感受性くらい
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
(水内喜久雄選・著『茨木のり子詩集 落ちこぼれ』理論社、2004より)
すてき。
自分が、正しいと感じること、心地よいと感じること、何かおかしいと感じること。
そういう感受性を、自分で守っていくんだ。
2009年8月27日木曜日
平和について、いろいろ思うこと
あたしは世界の平和にどうやって貢献できるのだろうか。
世界が平和になってほしい。
夢は世界平和って、けっこう耳にするフレーズかもしれないけれど、
それって、すごい壮大な夢だと思う。
「世界平和」って何だろう??
どんな状態なんだろう??
人類は今までそれを達成したことはないのか。
それとも、そんなことはないのだろうか。
パックスロマーナは平和だったの?
でもあの時代には奴隷という存在がいて、彼らには現代における人権という概念は適用されなかったはずだ。
平和って、なんだ?
ある価値観からみて酷な状況にいる人間だって、別の価値観、本人からしたら別にそんなことはないかもしれない。
「解放」という大義は「侵略」のすり替えだということも、大いにありうる。
世界は、相対的に、平和に近づいているのだろうか。
1960年代、旧植民地諸国が次々と独立を果たし、公民権運動が起こり、かつて人間と見なされなかった人びとが、人間として認められるようになり、人権という概念の範疇が広がっていったという歴史。学部の国際法の授業で、よく言われていたこと。
けれど、やっぱりまだまだだ。
あたしは何ができるのか。
ひとでも、風景でも、光景でも、美しいものを知っているからこそ、
世界が平和になってほしい。
その一方で、物事はいつも、相反するものを含んでいるということを、あたしは知っている。
だけど、それは必ずしも矛盾を意味しない、とあたしは思っている。
物事に含まれる相反する性質さえも、全て包容することが、求められるのかもしれない、と思う。
だけれど、それはすごく、難しいなあ。それは、とてつもなく、広い広いこころだ。
あとは、「信頼」
究極的には、「信頼」だと思う。
「信頼」だけだと思うのだ。
世界が平和になってほしい。
夢は世界平和って、けっこう耳にするフレーズかもしれないけれど、
それって、すごい壮大な夢だと思う。
「世界平和」って何だろう??
どんな状態なんだろう??
人類は今までそれを達成したことはないのか。
それとも、そんなことはないのだろうか。
パックスロマーナは平和だったの?
でもあの時代には奴隷という存在がいて、彼らには現代における人権という概念は適用されなかったはずだ。
平和って、なんだ?
ある価値観からみて酷な状況にいる人間だって、別の価値観、本人からしたら別にそんなことはないかもしれない。
「解放」という大義は「侵略」のすり替えだということも、大いにありうる。
世界は、相対的に、平和に近づいているのだろうか。
1960年代、旧植民地諸国が次々と独立を果たし、公民権運動が起こり、かつて人間と見なされなかった人びとが、人間として認められるようになり、人権という概念の範疇が広がっていったという歴史。学部の国際法の授業で、よく言われていたこと。
けれど、やっぱりまだまだだ。
あたしは何ができるのか。
ひとでも、風景でも、光景でも、美しいものを知っているからこそ、
世界が平和になってほしい。
その一方で、物事はいつも、相反するものを含んでいるということを、あたしは知っている。
だけど、それは必ずしも矛盾を意味しない、とあたしは思っている。
物事に含まれる相反する性質さえも、全て包容することが、求められるのかもしれない、と思う。
だけれど、それはすごく、難しいなあ。それは、とてつもなく、広い広いこころだ。
あとは、「信頼」
究極的には、「信頼」だと思う。
「信頼」だけだと思うのだ。
2009年8月18日火曜日
根無し草
あたしは一生根無し草なんだろうか、と思うと、ときどきどうしようもない孤独感に苛まれる。
コミュニティーが崩壊して、人と人との関係が希薄になった現代、あたしと同じような感覚を持つひとは意外と多いのではないかと、思う。
一昨年、あたしの祖父母の中で唯一存命であった母方のおばあちゃんが亡くなって、あたしの根無し草感はすごく高まった。
脳梗塞で倒れて入退院やホーム通いをするようになるまでは、近くに住んでいたおばあちゃん。
おばあちゃんがいなくなったことで、あたしの中にあった大きな柱のようなものがなくなって、ときどき空虚な感覚が襲ってくるようになった気がする。
あたしは一人で、死ぬのも一人で、孤独なんだという、感覚。
おばあちゃんは自分にとって、絶対的な存在だったのだ、と思った。
心から信頼できる人。
無条件に自分を受け入れてくれる人。
おばあちゃんの死は、ある程度の年齢になって、初めて実感した人の死というものだった。
柱は大きかったのだ。
今、あたしの心の中の安息は、どこか欠けている気がする。
おばあちゃんに、きちんと恩返ししただろうか。
そんなことを考えると、自信がない。
心の中で、思うしかない。
ありがとう、と言うしかない。
人の存在とは、それだけ大きいのだろう。
おばあちゃんは、親とはまた違う気がする。
長い人生経験を重ねた人の持つ達観があるし、
何の利害もなく無条件に受け入れてくれる存在に思えた。
まあ、ただ親と違って、怒られなかった、ということもあるかもしれないけれど。
あたしは何で「根無し草感」を抱いているのだろう。
家族はちゃんといるけれど、確かに親戚はそんなに多くないし、そんなに頻繁にも会わない。
根無し草の孤独感は、きっと解消されるものではない。そんな気がする。
根無し草は根無し草なりに、
自分でどこかに場所を見つけて、
ちゃんと根を張って生きていかないといけないのだろう。
今は綿毛か何かのごとく、
浮遊しているのがあたしなんだ。
孤独とはうまく付き合いたい。
歳をとること、死を迎えること。
そういう宿命と表裏一体の、生。
人間は孤独だけれど、同じ孤独を背負った多くの他者の生と触れ合って、
泣いたり笑ったり感動したりしながら、
一生を過ごしていくんだろうな。
あたしは、どんな道を歩むのだろう。
根無し草の孤独感も
人と触れ合っている間は
しばし忘れることができる気がする。
自分にある冷酷な部分もわかっているつもりだけれど、
それでも
触れ合う人を大切にする努力をしたい。
その力量を、つけられるようにしたい。
コミュニティーが崩壊して、人と人との関係が希薄になった現代、あたしと同じような感覚を持つひとは意外と多いのではないかと、思う。
一昨年、あたしの祖父母の中で唯一存命であった母方のおばあちゃんが亡くなって、あたしの根無し草感はすごく高まった。
脳梗塞で倒れて入退院やホーム通いをするようになるまでは、近くに住んでいたおばあちゃん。
おばあちゃんがいなくなったことで、あたしの中にあった大きな柱のようなものがなくなって、ときどき空虚な感覚が襲ってくるようになった気がする。
あたしは一人で、死ぬのも一人で、孤独なんだという、感覚。
おばあちゃんは自分にとって、絶対的な存在だったのだ、と思った。
心から信頼できる人。
無条件に自分を受け入れてくれる人。
おばあちゃんの死は、ある程度の年齢になって、初めて実感した人の死というものだった。
柱は大きかったのだ。
今、あたしの心の中の安息は、どこか欠けている気がする。
おばあちゃんに、きちんと恩返ししただろうか。
そんなことを考えると、自信がない。
心の中で、思うしかない。
ありがとう、と言うしかない。
人の存在とは、それだけ大きいのだろう。
おばあちゃんは、親とはまた違う気がする。
長い人生経験を重ねた人の持つ達観があるし、
何の利害もなく無条件に受け入れてくれる存在に思えた。
まあ、ただ親と違って、怒られなかった、ということもあるかもしれないけれど。
あたしは何で「根無し草感」を抱いているのだろう。
家族はちゃんといるけれど、確かに親戚はそんなに多くないし、そんなに頻繁にも会わない。
根無し草の孤独感は、きっと解消されるものではない。そんな気がする。
根無し草は根無し草なりに、
自分でどこかに場所を見つけて、
ちゃんと根を張って生きていかないといけないのだろう。
今は綿毛か何かのごとく、
浮遊しているのがあたしなんだ。
孤独とはうまく付き合いたい。
歳をとること、死を迎えること。
そういう宿命と表裏一体の、生。
人間は孤独だけれど、同じ孤独を背負った多くの他者の生と触れ合って、
泣いたり笑ったり感動したりしながら、
一生を過ごしていくんだろうな。
あたしは、どんな道を歩むのだろう。
根無し草の孤独感も
人と触れ合っている間は
しばし忘れることができる気がする。
自分にある冷酷な部分もわかっているつもりだけれど、
それでも
触れ合う人を大切にする努力をしたい。
その力量を、つけられるようにしたい。
2009年8月13日木曜日
わだつみのこえ―8・15イベント
『きけ わだつみのこえ』という本がある。
第二次世界大戦で、学徒兵として動員された学生たちの手記や遺稿が掲載された本だ。
学徒出陣で動員された学生たちは、今の私と同じくらいの年齢の方が圧倒的に多い。
学問への志、家族や愛する人への思い、自由な思想。そういう様々な思いを抱きながら、戦闘や、戦地で患った病で亡くなっていった無数の人びと。
学部生のときからBlue Birdsがお世話になっている先生の発案で、「世代間対話」という企画が都内大学の教室で行われたのは去年の10月。
ベトナム戦争に反対した大規模な市民運動である「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」を率先していた世代の人びとと、20代の学生である私たちが、世代を超えて対話しようという企画であった。
その中のおひとりは、学徒兵の手記の保存や戦争体験の継承を行い、戦没学生の遺志を伝え、あのような戦争を二度と繰り返さないための活動を行っている「わだつみ会」の中心的な方である。
そのつながりから、私を含めたBlue Birdsメンバーは、本郷にある「わだつみのこえ記念館」を紹介していただき、戦没学生の実物の手記を拝見させていただいたり、さまざまなイベントにお誘いいただいてた。
今日は、そのわだつみ会主催の、終戦の日を前にした「今もつづく戦争」と題したイベントに出向いた。
太平洋戦争に関するドキュメンタリー映像や、戦争体験者の方の証言映像を見た。
とても色々なことが、頭の中を巡った。
64年前、ひとつの国家の軍部は、燃料不足や食糧不足の事実から目をそらし、戦局が明らかに傾いていく中でも、「精神力」なるもので戦争を完遂させることを主張していた。戦闘のさなかにいる人びとや、巻き込まれる一般市民のことを、一時でも考えたことはなかったのだろうか。冷静さも正気も、何も感じられない。
戦闘を行った国どうしの人と人の間の憎しみや恨み、憎悪の感情と、たくさんの犠牲者。それだけが後に残る。それが戦争だと思う。
「勝ちたい」「打ち負かしたい」
そのような欲望が国家全体を包みこむということ。その恐怖を感じると同時に、人間ひとりひとりにも、そのような感情があるということを再認識させられて、はっとする。
その感情がひとの精神を占領したとき、人間は狂気になる。そして戦場では、ひとは狂気になるしかないのかもしれない。
そうなる前に、考えたい。気づきたい。大きな大きな流れが出来上がり、その流れに逆らうことが不可能になってしまう前に。
少年兵として志願、お兄さんを潜水艦の特攻で亡くされ、終戦後はシベリアに抑留された経験を持つ方と、特攻隊に指名され、訓練を受け、出撃直前に終戦を迎えた方など、戦争体験者の方々に直接会場でお話をお伺いすることができた。
軍隊に入ることを夢見ていた少年たちがいたということを知る。
一週間終戦が遅れていたら、今生きていないとおっしゃった、特攻の訓練を受けた方のお話。
シベリアで命からがら生き残って帰国した後も、差別などに苦しんだ経験を語られた、元少年兵の方。
まさかそんな経験をされているなんて、言われなければわからないような笑顔を向けて下さりながら、私たち何も知らない学生へお話して下さった。
戦争体験をした方がたは、もうご高齢である。
私は、祖父も祖母ももう亡くなってしまったこともあり、そのようなお話を今日直接お聞きできたことは、とても貴重な経験だった。
繰り返さないために、気づくことができるように、知らなければいけないことがあると思う。
戦争に至るまでのこと、アジアの国ぐにで日本が行ってきたこと、今も眠る戦没者の亡骸のこと、戦争が人びとに遺したさまざまな爪痕のこと。今も世界で、起こっていること。
知り続け、考え続けること。私が今できることは、そうしてそれを少しだけでも誰かに伝えていくことなのかもしれない。
第二次世界大戦で、学徒兵として動員された学生たちの手記や遺稿が掲載された本だ。
学徒出陣で動員された学生たちは、今の私と同じくらいの年齢の方が圧倒的に多い。
学問への志、家族や愛する人への思い、自由な思想。そういう様々な思いを抱きながら、戦闘や、戦地で患った病で亡くなっていった無数の人びと。
学部生のときからBlue Birdsがお世話になっている先生の発案で、「世代間対話」という企画が都内大学の教室で行われたのは去年の10月。
ベトナム戦争に反対した大規模な市民運動である「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」を率先していた世代の人びとと、20代の学生である私たちが、世代を超えて対話しようという企画であった。
その中のおひとりは、学徒兵の手記の保存や戦争体験の継承を行い、戦没学生の遺志を伝え、あのような戦争を二度と繰り返さないための活動を行っている「わだつみ会」の中心的な方である。
そのつながりから、私を含めたBlue Birdsメンバーは、本郷にある「わだつみのこえ記念館」を紹介していただき、戦没学生の実物の手記を拝見させていただいたり、さまざまなイベントにお誘いいただいてた。
今日は、そのわだつみ会主催の、終戦の日を前にした「今もつづく戦争」と題したイベントに出向いた。
太平洋戦争に関するドキュメンタリー映像や、戦争体験者の方の証言映像を見た。
とても色々なことが、頭の中を巡った。
64年前、ひとつの国家の軍部は、燃料不足や食糧不足の事実から目をそらし、戦局が明らかに傾いていく中でも、「精神力」なるもので戦争を完遂させることを主張していた。戦闘のさなかにいる人びとや、巻き込まれる一般市民のことを、一時でも考えたことはなかったのだろうか。冷静さも正気も、何も感じられない。
戦闘を行った国どうしの人と人の間の憎しみや恨み、憎悪の感情と、たくさんの犠牲者。それだけが後に残る。それが戦争だと思う。
「勝ちたい」「打ち負かしたい」
そのような欲望が国家全体を包みこむということ。その恐怖を感じると同時に、人間ひとりひとりにも、そのような感情があるということを再認識させられて、はっとする。
その感情がひとの精神を占領したとき、人間は狂気になる。そして戦場では、ひとは狂気になるしかないのかもしれない。
そうなる前に、考えたい。気づきたい。大きな大きな流れが出来上がり、その流れに逆らうことが不可能になってしまう前に。
少年兵として志願、お兄さんを潜水艦の特攻で亡くされ、終戦後はシベリアに抑留された経験を持つ方と、特攻隊に指名され、訓練を受け、出撃直前に終戦を迎えた方など、戦争体験者の方々に直接会場でお話をお伺いすることができた。
軍隊に入ることを夢見ていた少年たちがいたということを知る。
一週間終戦が遅れていたら、今生きていないとおっしゃった、特攻の訓練を受けた方のお話。
シベリアで命からがら生き残って帰国した後も、差別などに苦しんだ経験を語られた、元少年兵の方。
まさかそんな経験をされているなんて、言われなければわからないような笑顔を向けて下さりながら、私たち何も知らない学生へお話して下さった。
戦争体験をした方がたは、もうご高齢である。
私は、祖父も祖母ももう亡くなってしまったこともあり、そのようなお話を今日直接お聞きできたことは、とても貴重な経験だった。
繰り返さないために、気づくことができるように、知らなければいけないことがあると思う。
戦争に至るまでのこと、アジアの国ぐにで日本が行ってきたこと、今も眠る戦没者の亡骸のこと、戦争が人びとに遺したさまざまな爪痕のこと。今も世界で、起こっていること。
知り続け、考え続けること。私が今できることは、そうしてそれを少しだけでも誰かに伝えていくことなのかもしれない。
2009年7月29日水曜日
Happou Bijin
私は、八方美人だ。
誰にでもいい顔する方だと思う。
簡単にひとを嫌いになれない。
だってひとりひとりの人間て、愛しいんだもん。
すごいなあ、強いなあ、えらいなあ、かわいいなあ、お茶目だなあ、がんこだなあ、面白いなあ。
色んなこと思います。
ニュースとか見てたりすると、
ひょっとしてホントに、近い将来世界はダメんなっちゃうんじゃないかって、
そんな気がしてきて萎えることがよくある。
あーあ、もうだめだこんな世界、最悪。来世に期待、みたいな。笑
人間て、どうしてこうダメなんだろう。
欲深くて、弱くて、馬鹿で、学習しなくて。
自分という人間も含めて、傍観するようにそんなことを思ってしまう。
自分の中にある、ものすごく冷ややかな面と、愛しくて寂しくて、完璧じゃないから憎めない、人間のそういうところが好きだと思う面。
絶対平和主義なんて、絶対に不可能、ていう結論に辿り着きたくなくて、
無駄にあがいている
この八方美人。
まずは打たれろ強くなれ、て、思います。
明日から三日間、集中講義だから、課題やります。
はよはよ。
誰にでもいい顔する方だと思う。
簡単にひとを嫌いになれない。
だってひとりひとりの人間て、愛しいんだもん。
すごいなあ、強いなあ、えらいなあ、かわいいなあ、お茶目だなあ、がんこだなあ、面白いなあ。
色んなこと思います。
ニュースとか見てたりすると、
ひょっとしてホントに、近い将来世界はダメんなっちゃうんじゃないかって、
そんな気がしてきて萎えることがよくある。
あーあ、もうだめだこんな世界、最悪。来世に期待、みたいな。笑
人間て、どうしてこうダメなんだろう。
欲深くて、弱くて、馬鹿で、学習しなくて。
自分という人間も含めて、傍観するようにそんなことを思ってしまう。
自分の中にある、ものすごく冷ややかな面と、愛しくて寂しくて、完璧じゃないから憎めない、人間のそういうところが好きだと思う面。
絶対平和主義なんて、絶対に不可能、ていう結論に辿り着きたくなくて、
無駄にあがいている
この八方美人。
まずは打たれろ強くなれ、て、思います。
明日から三日間、集中講義だから、課題やります。
はよはよ。
2009年7月20日月曜日
情けない
自分をコントロールすることができない。
私は一体何をしているんだろう。
何かを切り捨てることによってしか、ひとは生きられないのか。
それとも、自分が弱いから、日々のさまざまな「選択」と「切り捨て」がうまくできないのだろうか。
何かを選択したら、何かを切り捨てる。何かを大事にしたら、何かを傷つける。
人はそうすることでしか、生きていけないのか。
勉強をするために大学院に通わせていただきながら、自分の研究の方向性すら定まっていない。
そしてここのところ、授業が終わってレポート期間に突入したにも関わらず、帰りが遅くなって親に心配をかけた挙句、このままならば大学院を辞めろと言われた。
正直、当然だと思う。
本当に、自分が情けなくてしょうがない。
勉強できる環境に、感謝すべきところだというのに。
なんて落ちぶれた、最低な学生なんだろう。
本当に最低だ。
今まで自分はどれだけ甘ったれて生きてきたのだろう。
働きたい。ものがないところで。誰かのために。自分のエゴだと知った上で。
もうそうすることでしか、自分が保てないような気がする。
私は一体何をしているんだろう。
何かを切り捨てることによってしか、ひとは生きられないのか。
それとも、自分が弱いから、日々のさまざまな「選択」と「切り捨て」がうまくできないのだろうか。
何かを選択したら、何かを切り捨てる。何かを大事にしたら、何かを傷つける。
人はそうすることでしか、生きていけないのか。
勉強をするために大学院に通わせていただきながら、自分の研究の方向性すら定まっていない。
そしてここのところ、授業が終わってレポート期間に突入したにも関わらず、帰りが遅くなって親に心配をかけた挙句、このままならば大学院を辞めろと言われた。
正直、当然だと思う。
本当に、自分が情けなくてしょうがない。
勉強できる環境に、感謝すべきところだというのに。
なんて落ちぶれた、最低な学生なんだろう。
本当に最低だ。
今まで自分はどれだけ甘ったれて生きてきたのだろう。
働きたい。ものがないところで。誰かのために。自分のエゴだと知った上で。
もうそうすることでしか、自分が保てないような気がする。
2009年7月13日月曜日
2009年7月3日金曜日
こんな気分
メールを下さったひと、どうもありがとうございました(><)!!
23歳を迎えることができました。なので微妙にブログタイトルを修正し、年齢を削除しました笑。ホントに微妙な修正…笑
Champagne Supernovaを聞きながら書いています。私の大好きな曲。
でもさっきまではこちらを見てました。こんな気分でした。↓
毎日考えることに埋もれそうで、色々な不安とか細々としたことを気にしてしまって、めちゃくちゃ弱い自分はときどき、どうしようもなくつぶれそうで、
でも何とかこうして生きていられるのも、ほんとに、周りにいてくれる人(そして音楽)のおかげというか、
何かそういうことを考えると、すごくしんみりする。
この夏は強くなるぞ。
うん、強くなろう。
強くなります。
前に進むために旅立つことは、痛みを伴うことでもあるけれど、
痛みをも受け入れられる、強くやさしい人間になりてー!って、
思う。
まだまだまだまだ、まだまだ、精神修行が足りないなあ、と日々思う。
磨いて磨いて磨きまくって、
いつか人を少しでも幸せにできたらいい、と思う。
それはたぶん、自分の幸せとイコールになるからだ。
学部のときゼミの先生は、私に
「人の役に立つってことは、難しいことなんだよ。」
とおっしゃった。
私は、今になってその意味がやっと少しわかってきた気がする。
随分独りよがりで、人の立場に立つということの意味を、全然わかっていなかったあの頃。
私は、「聞く力」を身につけたい。
まずは「聞くこと」だと思うから。
強くなります。
23歳を迎えることができました。なので微妙にブログタイトルを修正し、年齢を削除しました笑。ホントに微妙な修正…笑
Champagne Supernovaを聞きながら書いています。私の大好きな曲。
でもさっきまではこちらを見てました。こんな気分でした。↓
毎日考えることに埋もれそうで、色々な不安とか細々としたことを気にしてしまって、めちゃくちゃ弱い自分はときどき、どうしようもなくつぶれそうで、
でも何とかこうして生きていられるのも、ほんとに、周りにいてくれる人(そして音楽)のおかげというか、
何かそういうことを考えると、すごくしんみりする。
この夏は強くなるぞ。
うん、強くなろう。
強くなります。
前に進むために旅立つことは、痛みを伴うことでもあるけれど、
痛みをも受け入れられる、強くやさしい人間になりてー!って、
思う。
まだまだまだまだ、まだまだ、精神修行が足りないなあ、と日々思う。
磨いて磨いて磨きまくって、
いつか人を少しでも幸せにできたらいい、と思う。
それはたぶん、自分の幸せとイコールになるからだ。
学部のときゼミの先生は、私に
「人の役に立つってことは、難しいことなんだよ。」
とおっしゃった。
私は、今になってその意味がやっと少しわかってきた気がする。
随分独りよがりで、人の立場に立つということの意味を、全然わかっていなかったあの頃。
私は、「聞く力」を身につけたい。
まずは「聞くこと」だと思うから。
強くなります。
2009年7月2日木曜日
2009年6月28日日曜日
自由
ときどき
自分という存在にまつわるすべてのものから、自由になりたい、と思うことがある。
年齢、性別、出身地、血液型、身体的特徴、過去のできごと等々…
椎名林檎の歌詞にあったフレーズを思い出した。
「劣等感 カテゴライズ そういうの忘れてみましょう」
何が正しくて、何が優れていて、何故自分は生きているのか。
そういう答えのない問に疲れてしまったとき、
私には、意味を求めないものが必要だ。
芸術と呼ばれているあらゆる表現は、それに触れる者に価値判断を求めない。
音楽を聴いて、風に吹かれてしまえば、
束の間、善悪や意味、自分というものから、自由になれる気がします。
自分という存在にまつわるすべてのものから、自由になりたい、と思うことがある。
年齢、性別、出身地、血液型、身体的特徴、過去のできごと等々…
椎名林檎の歌詞にあったフレーズを思い出した。
「劣等感 カテゴライズ そういうの忘れてみましょう」
何が正しくて、何が優れていて、何故自分は生きているのか。
そういう答えのない問に疲れてしまったとき、
私には、意味を求めないものが必要だ。
芸術と呼ばれているあらゆる表現は、それに触れる者に価値判断を求めない。
音楽を聴いて、風に吹かれてしまえば、
束の間、善悪や意味、自分というものから、自由になれる気がします。
会えて、嬉しかった
今日、本当に久しぶりに、高校の頃の同級生に会った。
一緒に『レ・ミゼラブル』を公演した仲間たち。
私は皆に会うと、根底に「同志」という文字が浮かんでくるような、そんな感じを抱いてしまう。
久しぶりに会って、すごく幸せだった。
それぞれの道に進んでいて、それぞれ色々な苦労もしているようだけれど、
それぞれの「自分」を生きている感じが、あの頃と変わらないなあ、と思って、すごくうれしくなった。
みんなの元気な顔を見たら、何だかほっとして、ありきたりな表現だけれど、高校のときの感覚に戻ったような気がした。
高校に入学する前、自分の高校の体育祭を見に行って、チアが肩にのっかって、高い塔をつくって、そこからダイブしてそれを下の人が受け止めるなんてことをやっていて、棒倒しやら応援やら、その体育祭のものすごい気迫に惹かれて、「あーここだ!この一員になりたい!」と思って受験した。(だけど実際体育祭では三年間応援団に入った私)
私が高校で学んだことはあまりにも大きい気がする。
「学んだ」なんていうものではないかもしれないけれど、
とにかく毎日毎日、必死だったし、無我夢中だった。
燃えたぎるような高校生活が送れたこと。
日々の色んな悩みもたくさんあったけれど、
「生き抜いた」感がすごく、ある。笑
そんな日々を共に過ごして、そんな日々を一緒に作り上げた尊敬すべき仲間が今もこうして元気でいてくれること。
本当に幸せなことだと思った。
あの頃の延長線上を、みんなは生きている気がした。
すごい元気をもらって、私も頑張っていかな!と思った。
めちゃくちゃハングリーだけど、乙女な女の子たち★
(※共学だけれど、三年間女子クラス)
ありがとーーー
一緒に『レ・ミゼラブル』を公演した仲間たち。
私は皆に会うと、根底に「同志」という文字が浮かんでくるような、そんな感じを抱いてしまう。
久しぶりに会って、すごく幸せだった。
それぞれの道に進んでいて、それぞれ色々な苦労もしているようだけれど、
それぞれの「自分」を生きている感じが、あの頃と変わらないなあ、と思って、すごくうれしくなった。
みんなの元気な顔を見たら、何だかほっとして、ありきたりな表現だけれど、高校のときの感覚に戻ったような気がした。
高校に入学する前、自分の高校の体育祭を見に行って、チアが肩にのっかって、高い塔をつくって、そこからダイブしてそれを下の人が受け止めるなんてことをやっていて、棒倒しやら応援やら、その体育祭のものすごい気迫に惹かれて、「あーここだ!この一員になりたい!」と思って受験した。(だけど実際体育祭では三年間応援団に入った私)
私が高校で学んだことはあまりにも大きい気がする。
「学んだ」なんていうものではないかもしれないけれど、
とにかく毎日毎日、必死だったし、無我夢中だった。
燃えたぎるような高校生活が送れたこと。
日々の色んな悩みもたくさんあったけれど、
「生き抜いた」感がすごく、ある。笑
そんな日々を共に過ごして、そんな日々を一緒に作り上げた尊敬すべき仲間が今もこうして元気でいてくれること。
本当に幸せなことだと思った。
あの頃の延長線上を、みんなは生きている気がした。
すごい元気をもらって、私も頑張っていかな!と思った。
めちゃくちゃハングリーだけど、乙女な女の子たち★
(※共学だけれど、三年間女子クラス)
ありがとーーー
2009年6月24日水曜日
動機
以下は火曜に書いて、下書きのまま保存してあったので一応載せておこうと思う。
今日、「国際NGO発展論」の授業で先生は、援助の三類型に触れた。
1 人道系(主に緊急支援など)
2 農村開発など、長期型のもの
3 アドボカシー・政策提言
だいたいこの3つに分類できるのが、NGOの活動だということ。
これらはそれぞれ属する人のタイプが違う、という。そして私たち学生に、自分はどれにあてはまると思うかを先生は尋ねた。
困った。わからない…
「わからないです」と正直に答えたら、もちろん皆さんそれぞれどれも興味あるでしょうけれど、わからなくても言ってみて、とおっしゃた。
私は瞬時に考えて、自分は今は1か3だと思った。
そして3と答えた。
私はいつも、自分を分析する。
自分は、人の役にたっているという感覚がほしい=そう思えることで自分の存在意義を確認したい(1になるのかな)、もしくは、世界を自分の美意識に合うように変えたい、つくっていきたい(3になるのかな)。
そういうエゴイスティックで個人的な欲望が、NGOのような活動に携わりたい、根本的なモチベーションになっているのではないか、と。
「表面的」には、ひとの役にたちたい、苦しんでいる人や困っている人や辛い思いをしている人を、どうにか助けたい、とか、不条理で不平等な世界を変えたい、というように言いかえることができるかもしれない。
でも、深層心理は、上のような欲があるんじゃないかなあ、と思う。
つまりは、自分のためであり、辛い人や苦しい人に、自分を重ねて、「仲間」になってもらいたい、それで自分が救われたい、という感情があるんじゃないかと思う。
村上春樹さんが表現した「壁」(=システム)と「卵」(=個人)だったら、自分が卵でいたいし、卵でいることしかできない、脆弱な卵であることを自覚しているからではないか、と思う。
今日、「国際NGO発展論」の授業で先生は、援助の三類型に触れた。
1 人道系(主に緊急支援など)
2 農村開発など、長期型のもの
3 アドボカシー・政策提言
だいたいこの3つに分類できるのが、NGOの活動だということ。
これらはそれぞれ属する人のタイプが違う、という。そして私たち学生に、自分はどれにあてはまると思うかを先生は尋ねた。
困った。わからない…
「わからないです」と正直に答えたら、もちろん皆さんそれぞれどれも興味あるでしょうけれど、わからなくても言ってみて、とおっしゃた。
私は瞬時に考えて、自分は今は1か3だと思った。
そして3と答えた。
私はいつも、自分を分析する。
自分は、人の役にたっているという感覚がほしい=そう思えることで自分の存在意義を確認したい(1になるのかな)、もしくは、世界を自分の美意識に合うように変えたい、つくっていきたい(3になるのかな)。
そういうエゴイスティックで個人的な欲望が、NGOのような活動に携わりたい、根本的なモチベーションになっているのではないか、と。
「表面的」には、ひとの役にたちたい、苦しんでいる人や困っている人や辛い思いをしている人を、どうにか助けたい、とか、不条理で不平等な世界を変えたい、というように言いかえることができるかもしれない。
でも、深層心理は、上のような欲があるんじゃないかなあ、と思う。
つまりは、自分のためであり、辛い人や苦しい人に、自分を重ねて、「仲間」になってもらいたい、それで自分が救われたい、という感情があるんじゃないかと思う。
村上春樹さんが表現した「壁」(=システム)と「卵」(=個人)だったら、自分が卵でいたいし、卵でいることしかできない、脆弱な卵であることを自覚しているからではないか、と思う。
長雨
毎日色々なことを考える。
色んなものに興味があって、大変だ。
昨日は寝る前何故かすごく寂しい気持ちになった。ひどく疲れて、何も考えたくないような気持ちで、どうやってさまざまな矛盾やうまくいかないことに対する不満やいらいらや、一種の怒りのような、ストレスとして噴出してしまいそうな自分の中の感情を鎮めようかと考えていた。頭で考えすぎてしまうと駄目なので、好きな映画のYou Tubeを見ることにした。Dancer in the darkという、ビョーク主演の映画で、決してハッピーな話ではなく、むしろひどく不条理で悲しい話だけれど、曲がすごく良いし、映像も好きなので、惹かれてしまう。岡本太郎の言うところの、「きれい」ではなく「美しい」映画ではないかと、私は思う。岡本太郎は本の中で「きれい」の反対語が「美しい」だと言っていた。すごいことを言うひとだと思ったけれど、なんとなくわかる。きれい、と美しいは違うんだなあ。岡本太郎は今日の芸術は「きれい」でも「心地よい」ものでもいけない、と言っていた。「美しい」は、必ずしも「心地よい」ものではないのかもしれない。この映画だって、ひどく、ひどく悲しいけれど、セルマ(主人公)の歌が、すごく良い。病気で目が見えなくなっていく中で、同じ病気の息子の手術ために必死にお金を貯めて、でもだまされて信頼していた人に金を盗まれ、その人を殺してしまい息子を残して死刑を宣告される。悲しすぎるし、不条理すぎる。音楽とダンスだけが、輝きを放っている。
不条理だったり、善や悪といったものと、音楽やダンスは関係ない。そんなことを伝えているようにも感じる。とにかく、悲しいけど美しい。
寝る前、人間はみんなひとりで死んでいくんだ、とか、変なことを考えてすごく切なくなった。
自分の人生を考えると、ものすごい寂しさと、拠り所のない不安のようなものに駆られてどうしようもなく焦るときがある。
人生に限りがあるということを考えると、やりきれなくなるときがある。
そういうことを何とか誤魔化そうと、忘れて生きようとするのが、人間なのかもしれない。
理由もなく新しい世界を求め、刺激を求めて生きようとする。
色んなものに興味があって、大変だ。
昨日は寝る前何故かすごく寂しい気持ちになった。ひどく疲れて、何も考えたくないような気持ちで、どうやってさまざまな矛盾やうまくいかないことに対する不満やいらいらや、一種の怒りのような、ストレスとして噴出してしまいそうな自分の中の感情を鎮めようかと考えていた。頭で考えすぎてしまうと駄目なので、好きな映画のYou Tubeを見ることにした。Dancer in the darkという、ビョーク主演の映画で、決してハッピーな話ではなく、むしろひどく不条理で悲しい話だけれど、曲がすごく良いし、映像も好きなので、惹かれてしまう。岡本太郎の言うところの、「きれい」ではなく「美しい」映画ではないかと、私は思う。岡本太郎は本の中で「きれい」の反対語が「美しい」だと言っていた。すごいことを言うひとだと思ったけれど、なんとなくわかる。きれい、と美しいは違うんだなあ。岡本太郎は今日の芸術は「きれい」でも「心地よい」ものでもいけない、と言っていた。「美しい」は、必ずしも「心地よい」ものではないのかもしれない。この映画だって、ひどく、ひどく悲しいけれど、セルマ(主人公)の歌が、すごく良い。病気で目が見えなくなっていく中で、同じ病気の息子の手術ために必死にお金を貯めて、でもだまされて信頼していた人に金を盗まれ、その人を殺してしまい息子を残して死刑を宣告される。悲しすぎるし、不条理すぎる。音楽とダンスだけが、輝きを放っている。
不条理だったり、善や悪といったものと、音楽やダンスは関係ない。そんなことを伝えているようにも感じる。とにかく、悲しいけど美しい。
寝る前、人間はみんなひとりで死んでいくんだ、とか、変なことを考えてすごく切なくなった。
自分の人生を考えると、ものすごい寂しさと、拠り所のない不安のようなものに駆られてどうしようもなく焦るときがある。
人生に限りがあるということを考えると、やりきれなくなるときがある。
そういうことを何とか誤魔化そうと、忘れて生きようとするのが、人間なのかもしれない。
理由もなく新しい世界を求め、刺激を求めて生きようとする。
2009年6月22日月曜日
どみんご*
*日曜(西)
むー。
曲がりなりにも週6で学校に通っていると、日曜が神様に感じる。
どわーっと、寝て、外出して、帰って早く寝たら良いのに、眠ることが好きなのに、寝たくなくなったりしてしまう。
何で睡眠が必要なんだろう、睡眠を欲しない体になりたい、などと、無謀なことを思う。
集中するまでに、エネルギーが充満するまでに、タイミングと、時間がものすごくかかるくせに、何かの拍子でそのエネルギースイッチが入ってしまうと、私は暴走し始める。そういう、現代の、時間や効率という概念と相反するこの自分という存在が、腹立たしくもあり、憎たらしくもあるけれど、一端そのエネルギー稼働時間に入ると、そういうことを忘れてしまうから、本当に困ったものだ、と後からじわじわ後悔する。入ってほしいときに入るように、コントロールできるのが、大人なのだとしたら、私は全然大人じゃない。そして何故だかわからないけれど、ただ日々の暮らしの中で無駄に苦しんだり悩んだり皮肉っぽくなってしまったりする頻度が高いから、好きなことをやっていそうな人であったり、ポジティブなオーラが出まくっているような人とお話すると、何だかとても心が潤い、ああ、良かった、と思う。
彼とぷらぷらしてカフェで地球の話したり(エントロピーなんちゃら)、好きなアーティストのHPを見て、かっこいい人って、何でかっこいいんだろう、と、無意味な問を立ててみたり、作家のブログ読んだり、電車でひたすら音楽聴いたり、好きなように、日々どうしても感じてしまう地球や世界や自分への悩み痛み辛み等々をなるべく忘れて、やらねばいけないとわかっている諸々のことを横に置いて、過ごす日曜という日。今のこの不安定な自分にとっては、たぶん貴重な時間なのだと思う。何も考えないに等しい時間がなかったら、私は一体どうなるのだろう。
霧雨に心洗われた日曜日。都会だってアジサイはきれいね。
何だか普段は理性ばっかり使っているから、感性を呼ぶ時間が必要なんだろうということを、学習しました。
よし、また色んなひとから色んなパワーをもらわせていただこー。
むー。
曲がりなりにも週6で学校に通っていると、日曜が神様に感じる。
どわーっと、寝て、外出して、帰って早く寝たら良いのに、眠ることが好きなのに、寝たくなくなったりしてしまう。
何で睡眠が必要なんだろう、睡眠を欲しない体になりたい、などと、無謀なことを思う。
集中するまでに、エネルギーが充満するまでに、タイミングと、時間がものすごくかかるくせに、何かの拍子でそのエネルギースイッチが入ってしまうと、私は暴走し始める。そういう、現代の、時間や効率という概念と相反するこの自分という存在が、腹立たしくもあり、憎たらしくもあるけれど、一端そのエネルギー稼働時間に入ると、そういうことを忘れてしまうから、本当に困ったものだ、と後からじわじわ後悔する。入ってほしいときに入るように、コントロールできるのが、大人なのだとしたら、私は全然大人じゃない。そして何故だかわからないけれど、ただ日々の暮らしの中で無駄に苦しんだり悩んだり皮肉っぽくなってしまったりする頻度が高いから、好きなことをやっていそうな人であったり、ポジティブなオーラが出まくっているような人とお話すると、何だかとても心が潤い、ああ、良かった、と思う。
彼とぷらぷらしてカフェで地球の話したり(エントロピーなんちゃら)、好きなアーティストのHPを見て、かっこいい人って、何でかっこいいんだろう、と、無意味な問を立ててみたり、作家のブログ読んだり、電車でひたすら音楽聴いたり、好きなように、日々どうしても感じてしまう地球や世界や自分への悩み痛み辛み等々をなるべく忘れて、やらねばいけないとわかっている諸々のことを横に置いて、過ごす日曜という日。今のこの不安定な自分にとっては、たぶん貴重な時間なのだと思う。何も考えないに等しい時間がなかったら、私は一体どうなるのだろう。
霧雨に心洗われた日曜日。都会だってアジサイはきれいね。
何だか普段は理性ばっかり使っているから、感性を呼ぶ時間が必要なんだろうということを、学習しました。
よし、また色んなひとから色んなパワーをもらわせていただこー。
2009年6月14日日曜日
whatever is beautiful
なんか知らないけれど、もの書きたい神様が舞い降りてきてるみたいなので、今日はもう一個書きますー。
(あたしにはときどきやってくるいろんな神様がいるようです。多神教です。笑。神様じゃなくて妖怪か妖精でもいっか。よっ、ざしきわらし!みたいなね。)
美しいものを見たいんです。
美しいものが好きなんです。
何って具体的に言えないけれど、美しさってなかなかことばじゃ表現できない。
あっ、これ!
って思う、日常に潜んでいる風景とか。
見つけてしまったときには、それはもう、嬉しいこと嬉しいこと。
美しいもの、美しいことを見てるとき、聞いてるとき、感じてるとき、
自然と感謝したくなっちゃいます。
生きていくことって本当に過酷で、苦しいこともたくさんあるけれど、
そういう美しいものに出会ったときは、
やっぱりその瞬間生きていられて、ああ良かったな、と
思ってしまうのです。
だから、美しいものに出会うために、
自分は生きているのかも、しれません。
抽象的で主観的な独り言でした。
(あたしにはときどきやってくるいろんな神様がいるようです。多神教です。笑。神様じゃなくて妖怪か妖精でもいっか。よっ、ざしきわらし!みたいなね。)
美しいものを見たいんです。
美しいものが好きなんです。
何って具体的に言えないけれど、美しさってなかなかことばじゃ表現できない。
あっ、これ!
って思う、日常に潜んでいる風景とか。
見つけてしまったときには、それはもう、嬉しいこと嬉しいこと。
美しいもの、美しいことを見てるとき、聞いてるとき、感じてるとき、
自然と感謝したくなっちゃいます。
生きていくことって本当に過酷で、苦しいこともたくさんあるけれど、
そういう美しいものに出会ったときは、
やっぱりその瞬間生きていられて、ああ良かったな、と
思ってしまうのです。
だから、美しいものに出会うために、
自分は生きているのかも、しれません。
抽象的で主観的な独り言でした。
つくることって楽しいね
暑くなってきたなあ。夏がやってくる。
この季節になると、テストが近づいてきて、ばたばたしたりそわそわしたりしながら、テスト当日に誕生日を迎えたりしてたなあ。
23が近づいてくる…
次のぞろ目は33歳。
そのころ一体あたしは何者になってるんだろう。
でも、今はそれは考えないわよ。今を生きるのだ、うん。
それはそうと、
今日は学会→懇親会から帰ってきて、パソコンで名刺を作ってた。
今はテンプレートを無料ダウンロードして、PCとプリンタと用紙があれば、家で名刺が作れてしまう。
なんて便利なんでしょうね。
そして、作ってみたら、あら、楽しい。どうしよ~。
時間を忘れてやってたら、こんな時間…(だからルーズなんだわ。)
実を言えば、進路に死ぬほど悩んでいたとき、一時デザイン系の専門学校に行くことを考えていた…
イラストを描くことが昔から大好きだったし、表現したい欲求がずっとあった。
結果的にその道を選ぶことはやめたけれど、やっぱり、つくることって、すごく楽しい。
こだわりだしたら止まらなくなりそうだから、ほどほどにブレーキをかける。
本当はテンプレートじゃなくて、自分で絵描いたりして名刺を作りたいくらい…
絵の具で描いてデジカメで撮って、それを添付したら楽しそう。
一個じゃつまんないし、すごいシンプルだから、他のバージョンも時間のあるときを見つけて作りたいなあ。と目論み中。
名刺作りでこんな楽しんでる自分に驚き…
でもきっとそういうのやりだしたら本当に止まらないから、危ない。
あたしは昔から、「終わらせる」ことが苦手だった。
どこかで「終わり」にしなきゃいけないのはわかってるんだけれど。
だから、色んなことを完全に満足してやりきるってことが、なかなかわからない。
蛇足が怖いのかもしれない。
何より、頂点でなくちゃいけない、「終わり」というものが、未知すぎて、苦手意識がある。
だから、計画性もないし、いつも色んなことがぎりぎりである。
結局中途半端になって時間切れ、なんてのもしばしばある。
「終わり」を自分で決断できること。
それって、すごく大切な能力かもしれない、と思う。
ん、なんか脱線してる…
兎にも角にも、つくることって、すばらしい。
今日の学会は、発表聞いてるとき頭の中で音楽が鳴ってた。
昨日兄が夜ビョークのライブDVDを見てたからだっ。(人のせい。)
ビョーク大好きだから、いいけどね。
異文化コミュニケーションと音楽のコラボも、悪くないと思う。
て、何じゃそれ。
この季節になると、テストが近づいてきて、ばたばたしたりそわそわしたりしながら、テスト当日に誕生日を迎えたりしてたなあ。
23が近づいてくる…
次のぞろ目は33歳。
そのころ一体あたしは何者になってるんだろう。
でも、今はそれは考えないわよ。今を生きるのだ、うん。
それはそうと、
今日は学会→懇親会から帰ってきて、パソコンで名刺を作ってた。
今はテンプレートを無料ダウンロードして、PCとプリンタと用紙があれば、家で名刺が作れてしまう。
なんて便利なんでしょうね。
そして、作ってみたら、あら、楽しい。どうしよ~。
時間を忘れてやってたら、こんな時間…(だからルーズなんだわ。)
実を言えば、進路に死ぬほど悩んでいたとき、一時デザイン系の専門学校に行くことを考えていた…
イラストを描くことが昔から大好きだったし、表現したい欲求がずっとあった。
結果的にその道を選ぶことはやめたけれど、やっぱり、つくることって、すごく楽しい。
こだわりだしたら止まらなくなりそうだから、ほどほどにブレーキをかける。
本当はテンプレートじゃなくて、自分で絵描いたりして名刺を作りたいくらい…
絵の具で描いてデジカメで撮って、それを添付したら楽しそう。
一個じゃつまんないし、すごいシンプルだから、他のバージョンも時間のあるときを見つけて作りたいなあ。と目論み中。
名刺作りでこんな楽しんでる自分に驚き…
でもきっとそういうのやりだしたら本当に止まらないから、危ない。
あたしは昔から、「終わらせる」ことが苦手だった。
どこかで「終わり」にしなきゃいけないのはわかってるんだけれど。
だから、色んなことを完全に満足してやりきるってことが、なかなかわからない。
蛇足が怖いのかもしれない。
何より、頂点でなくちゃいけない、「終わり」というものが、未知すぎて、苦手意識がある。
だから、計画性もないし、いつも色んなことがぎりぎりである。
結局中途半端になって時間切れ、なんてのもしばしばある。
「終わり」を自分で決断できること。
それって、すごく大切な能力かもしれない、と思う。
ん、なんか脱線してる…
兎にも角にも、つくることって、すばらしい。
今日の学会は、発表聞いてるとき頭の中で音楽が鳴ってた。
昨日兄が夜ビョークのライブDVDを見てたからだっ。(人のせい。)
ビョーク大好きだから、いいけどね。
異文化コミュニケーションと音楽のコラボも、悪くないと思う。
て、何じゃそれ。
2009年6月10日水曜日
ムキにならないこと
いきなりだが、「ムキにならない」というのは、私にとっての課題である。
異文化コミュニケーション研究科に所属していることもあり、最近、コミュニケーションということについてよく考える。
私は、コミュニケーションていうのは、「痛み」を伴うものだと思う。
人とコミュニケーションする中で、違和感、それは何か違う気がする…と思うことがあっても、即座にそれに対してぶつかってしまったら、衝突や紛争になりかねない。
自分が、「痛み」を感じることは、大切だと思う。自分の内側に生まれた「痛み」を、外側に出して追いやってしまう、誰かにぶつける、というのではなく、自分の中で噛み砕き、消化するということ。
「痛み」だけじゃなくて、何だかもやもやとする感じだったり、腑に落ちないということだったり、そういうものに対して、自分が納得いかないというだけで、ムキになって反撃したり、あたったりしてはいけない、と思う。だからと言って、何も意見しない、ということではないけれど、ムキにならない、というところが重要だと思う。
「痛み」すら、吸収するような力が必要なのだと思う。
谷川俊太郎さんが、ある絵本の中で「こころを平和にする」という文章を書いている。
(その絵本は、谷川さんの詩と、イラクの子どもたちの描いた絵がのっている。)
「こころを平和にする」というのは、一生かかる難題だと、私は思う。
自分とは異なる他者とのコミュニケーションをする中で感じる「痛み」や「違和感」をも、噛み砕き、吸収すること。
それは「こころを平和にする」ことに、つながることかもしれない、と思う。
私はまだまだ、ムキになってしまう。
それかすごく悶々として凹む。笑
こころを平和に、近づけたいな。
異文化コミュニケーション研究科に所属していることもあり、最近、コミュニケーションということについてよく考える。
私は、コミュニケーションていうのは、「痛み」を伴うものだと思う。
人とコミュニケーションする中で、違和感、それは何か違う気がする…と思うことがあっても、即座にそれに対してぶつかってしまったら、衝突や紛争になりかねない。
自分が、「痛み」を感じることは、大切だと思う。自分の内側に生まれた「痛み」を、外側に出して追いやってしまう、誰かにぶつける、というのではなく、自分の中で噛み砕き、消化するということ。
「痛み」だけじゃなくて、何だかもやもやとする感じだったり、腑に落ちないということだったり、そういうものに対して、自分が納得いかないというだけで、ムキになって反撃したり、あたったりしてはいけない、と思う。だからと言って、何も意見しない、ということではないけれど、ムキにならない、というところが重要だと思う。
「痛み」すら、吸収するような力が必要なのだと思う。
谷川俊太郎さんが、ある絵本の中で「こころを平和にする」という文章を書いている。
(その絵本は、谷川さんの詩と、イラクの子どもたちの描いた絵がのっている。)
「こころを平和にする」というのは、一生かかる難題だと、私は思う。
自分とは異なる他者とのコミュニケーションをする中で感じる「痛み」や「違和感」をも、噛み砕き、吸収すること。
それは「こころを平和にする」ことに、つながることかもしれない、と思う。
私はまだまだ、ムキになってしまう。
それかすごく悶々として凹む。笑
こころを平和に、近づけたいな。
2009年6月9日火曜日
田植えin埼玉県小川町
6月7日(日)、大学院のゼミの先輩のご紹介で、埼玉県小川町のかんぺー農園さんという有機農園の田植えイベントに参加してきました。

道すがら
小川町は有機農業で有名なところらしいです。
池袋から70分、すてきな田園風景が広がっていました。
そして太陽がぎらぎらと輝く夏のようなお天気。
この日はトータルで25名ほどの参加者が来ていたようです。
みんなで一列になって、一斉に稲を植え付ける。
ひもを田んぼのはしからはしへと渡して、そのひもに等間隔で結ばれた印の真下に稲を植える。
植えたらひもを動かす係の人の掛声で、ひもが前方へずれる。
そうやって、稲がだいたい等間隔で植えられるようにする。

田んぼへ入るところ

植えてます


みんなでやる作業だから、テンポよくやらないと、だめなんですね~。(けっこう必死。笑)
都心に育った私は田んぼに入った経験がなかったから、初・田植え体験でした。
よろけそうになりながらも、ぬめっと足を包む田んぼの泥が、何とも気持ちいい。
ちょろちょろ動くものがいると思ったら、おたまじゃくしがいっぱい泳いでいました。あめんぼや、おそらくやごと思われる、半透明の小さいちょろちょろくんも。

お昼はこんなかまどで炊かれたごはん

と、カレー!

これは堆肥です。完全なる有機!
発酵しているため、60度以上の温度があるそうです。。すごいなあ、自然の力って…

畑もありました

三人娘
また行きたいです!
今度は収穫に…
道すがら
小川町は有機農業で有名なところらしいです。
池袋から70分、すてきな田園風景が広がっていました。
そして太陽がぎらぎらと輝く夏のようなお天気。
この日はトータルで25名ほどの参加者が来ていたようです。
みんなで一列になって、一斉に稲を植え付ける。
ひもを田んぼのはしからはしへと渡して、そのひもに等間隔で結ばれた印の真下に稲を植える。
植えたらひもを動かす係の人の掛声で、ひもが前方へずれる。
そうやって、稲がだいたい等間隔で植えられるようにする。
田んぼへ入るところ
植えてます
みんなでやる作業だから、テンポよくやらないと、だめなんですね~。(けっこう必死。笑)
都心に育った私は田んぼに入った経験がなかったから、初・田植え体験でした。
よろけそうになりながらも、ぬめっと足を包む田んぼの泥が、何とも気持ちいい。
ちょろちょろ動くものがいると思ったら、おたまじゃくしがいっぱい泳いでいました。あめんぼや、おそらくやごと思われる、半透明の小さいちょろちょろくんも。
お昼はこんなかまどで炊かれたごはん
と、カレー!
これは堆肥です。完全なる有機!
発酵しているため、60度以上の温度があるそうです。。すごいなあ、自然の力って…
畑もありました
三人娘
また行きたいです!
今度は収穫に…
2009年6月6日土曜日
2009年6月4日木曜日
考え続けること
「感じ、考え、想像すること。」
「考え続けること。」
学部のとき、同じ学科の友だちと立ち上げた有志団体Blue Birdsが、大切にしている理念。
平和や、社会問題に関心を持ち、それに対して何かしたい、と考えているという共通項があるけれど、メンバーはそれぞれ色々な分野に興味を持っている。紛争、戦争、環境問題、構造的暴力、人権、食等々のキーワード…国内外問わず、さまざまだ。
と言っても、バリバリの社会運動家、ってわけではなく、みんな、いわゆるフツウの女の子。
社会人、院生、学生、という多様性が、よいところ。
今、10月に、アートチーム・ピエロの筆とのコラボで、中高で授業をする企画が進行中だ。
その企画では、「大きな流れに流されるのではなく、自分の視点で物事を見極め、考え続ける」ということを伝えられたら、と思っている。「答え」は求めない。
具体的なテーマとしては、「誰でも、知らず知らずのうちに、戦争の担い手になってしまう可能性を持っている。また、戦争にNOと言えずに、戦争が起こってしまう可能性がある。」ということを伝えようということになった。
色々な事例を話し合ったけれど、特に、経済的な面での戦争への動因は怖い。
『ルポ 貧困大国アメリカ』という新書がある。
しばしば、問題として取り上げられることだけれど、アメリカでは、経済的に困窮している人びとが、学費を免除してもらえるとか、奨学金をもらえるとか、そういう理由で、軍のリクルートに応じ、入隊するケースが多いという。
たくみな誘いで、入隊してみたら、全く予想だにしないうちに、いつのまにかイラクに従軍することになり、心の傷を負って帰還するというケースもある。
新聞で最近目にしたのは、アメリカのアフガニスタン帰還兵のPTSD(心的外傷後ストレス障害)というものだ。イラク戦争のときも、全く同じような記事を目にした。
心身の傷を負った多くの帰還兵は、帰還後働くこともできない。戦場での記憶が、トラウマになり、子育てがうまくできなくなって、リハビリ施設に入った女性のドキュメンタリーを、以前に見たこともある。そのような帰還兵問題が最近取り上げられているのを、よく目にする。
アメリカには、民間軍事会社というものもある。これもまた問題だ。
民間の会社が、軍事を請け負い、従軍するのだ。
戦争の裏に隠された「経済」。
戦争を行うことで、儲かる人びとがいると同時に、経済的に苦しい人びとはいつのまにか、戦場へと送り出されるという構造。
格差が激しくなる日本で、2007年に、30代のフリーターの人が書いた、「希望は戦争だ」という趣旨の原稿が雑誌に掲載されたという事実もある。
困窮の中で、ひとは、判断する、ということが、難しくなってしまうのかもしれない。
そうするしかないのなら、自分だって、そういう状況に陥ったら、戦争や軍隊ということを考えないとは言い切れない。やりきれない感情や、どこに向ければいいかわからない怒り、理不尽だと思う気持ちを、そういうものに、向けてしまいかねない。
前者のアメリカ軍のリクルートに関しては、非常に、構造的な問題だと思う。
また、今は、水に代表される、資源収奪で、戦争や紛争が起こる可能性が盛んに叫ばれている。
いずれにしても、構造的な問題であると思う。
だから、その構造について学び、自分の視点で考えなければならない。
この世界には、全人口が満たされるだけの食糧を生み出すキャパシティーがあるというが、先日授業で知ったことであるが、日本は、世界の年間食糧援助量の、約3倍にものぼる食糧を毎年廃棄しているそうだ。
この世界の構造のゆがみ。
既に私は、その構造の中にいる。
だから、構造を理解し、考えなければいけない。そして、伝えないといけない。
「繰り返し、考え続けること。」
「戦争が嫌だ、と思っていても、自分だってそういう状況を意識的であれ、無意識的であれ、いつのまにか肯定してしまう可能性があること。」
「完全に、物事が元に戻せなくなる前に、そうなりそうな動きや兆候を感じとる感性を持って、自分の視点で物事を判断するように努力すること。」
「自分を含め、人間は弱いし、わかっていても、忘れっぽい。だから、なかなか自分で物事を見極めることはできないけれど、なかなかできない、ということを、自覚しておくこと。」
これは、戦争だけではなく、どんなことでも、言えることだと思う。
自分にも言い聞かせながら、私たちは伝えられたら、良いのかもしれない。
きっと、特に今の日本に必要なのは、そういう感覚であり、感性であり、「考える」ということ、なんだと思う。
※企画はまだまだ練っている途中です。ここに書いたことは、私の視点からの見解で、Blue Birdsという団体の見解というものではありません。
「考え続けること。」
学部のとき、同じ学科の友だちと立ち上げた有志団体Blue Birdsが、大切にしている理念。
平和や、社会問題に関心を持ち、それに対して何かしたい、と考えているという共通項があるけれど、メンバーはそれぞれ色々な分野に興味を持っている。紛争、戦争、環境問題、構造的暴力、人権、食等々のキーワード…国内外問わず、さまざまだ。
と言っても、バリバリの社会運動家、ってわけではなく、みんな、いわゆるフツウの女の子。
社会人、院生、学生、という多様性が、よいところ。
今、10月に、アートチーム・ピエロの筆とのコラボで、中高で授業をする企画が進行中だ。
その企画では、「大きな流れに流されるのではなく、自分の視点で物事を見極め、考え続ける」ということを伝えられたら、と思っている。「答え」は求めない。
具体的なテーマとしては、「誰でも、知らず知らずのうちに、戦争の担い手になってしまう可能性を持っている。また、戦争にNOと言えずに、戦争が起こってしまう可能性がある。」ということを伝えようということになった。
色々な事例を話し合ったけれど、特に、経済的な面での戦争への動因は怖い。
『ルポ 貧困大国アメリカ』という新書がある。
しばしば、問題として取り上げられることだけれど、アメリカでは、経済的に困窮している人びとが、学費を免除してもらえるとか、奨学金をもらえるとか、そういう理由で、軍のリクルートに応じ、入隊するケースが多いという。
たくみな誘いで、入隊してみたら、全く予想だにしないうちに、いつのまにかイラクに従軍することになり、心の傷を負って帰還するというケースもある。
新聞で最近目にしたのは、アメリカのアフガニスタン帰還兵のPTSD(心的外傷後ストレス障害)というものだ。イラク戦争のときも、全く同じような記事を目にした。
心身の傷を負った多くの帰還兵は、帰還後働くこともできない。戦場での記憶が、トラウマになり、子育てがうまくできなくなって、リハビリ施設に入った女性のドキュメンタリーを、以前に見たこともある。そのような帰還兵問題が最近取り上げられているのを、よく目にする。
アメリカには、民間軍事会社というものもある。これもまた問題だ。
民間の会社が、軍事を請け負い、従軍するのだ。
戦争の裏に隠された「経済」。
戦争を行うことで、儲かる人びとがいると同時に、経済的に苦しい人びとはいつのまにか、戦場へと送り出されるという構造。
格差が激しくなる日本で、2007年に、30代のフリーターの人が書いた、「希望は戦争だ」という趣旨の原稿が雑誌に掲載されたという事実もある。
困窮の中で、ひとは、判断する、ということが、難しくなってしまうのかもしれない。
そうするしかないのなら、自分だって、そういう状況に陥ったら、戦争や軍隊ということを考えないとは言い切れない。やりきれない感情や、どこに向ければいいかわからない怒り、理不尽だと思う気持ちを、そういうものに、向けてしまいかねない。
前者のアメリカ軍のリクルートに関しては、非常に、構造的な問題だと思う。
また、今は、水に代表される、資源収奪で、戦争や紛争が起こる可能性が盛んに叫ばれている。
いずれにしても、構造的な問題であると思う。
だから、その構造について学び、自分の視点で考えなければならない。
この世界には、全人口が満たされるだけの食糧を生み出すキャパシティーがあるというが、先日授業で知ったことであるが、日本は、世界の年間食糧援助量の、約3倍にものぼる食糧を毎年廃棄しているそうだ。
この世界の構造のゆがみ。
既に私は、その構造の中にいる。
だから、構造を理解し、考えなければいけない。そして、伝えないといけない。
「繰り返し、考え続けること。」
「戦争が嫌だ、と思っていても、自分だってそういう状況を意識的であれ、無意識的であれ、いつのまにか肯定してしまう可能性があること。」
「完全に、物事が元に戻せなくなる前に、そうなりそうな動きや兆候を感じとる感性を持って、自分の視点で物事を判断するように努力すること。」
「自分を含め、人間は弱いし、わかっていても、忘れっぽい。だから、なかなか自分で物事を見極めることはできないけれど、なかなかできない、ということを、自覚しておくこと。」
これは、戦争だけではなく、どんなことでも、言えることだと思う。
自分にも言い聞かせながら、私たちは伝えられたら、良いのかもしれない。
きっと、特に今の日本に必要なのは、そういう感覚であり、感性であり、「考える」ということ、なんだと思う。
※企画はまだまだ練っている途中です。ここに書いたことは、私の視点からの見解で、Blue Birdsという団体の見解というものではありません。
2009年6月3日水曜日
すごい音楽
今日、私がTAをさせていただいている授業で、ブルースの源流として、アフリカの音楽を聞いた。
フラフラ族という、何ともすてきな名前の部族の音楽らしかった。
それが、もう、ほんとに、かっこいい。
あのリズム感はなんだろう。あのサウンドは何だろう。
体が反応する。感性が覚醒する。
ものすごくノリたい衝動に駆られたけれど、TAとして最前列に座っている私、恥の文化が染みついてしまっているらしい、なんか、のるにのれなかった。(残念)
音楽って、いいな~。
キューバ音楽もすてきだなあと思うけれど、ブルースって、すごく色々な音楽の潮流を生み出した音楽。てか、キューバ音楽もその流れを汲んでいるのかな。
ロックだって、ジャズだって、ブルースがなきゃ生まれなかったってことだもんなあ。
抑圧の中から、発露された賜物。
矛盾や抑圧から、素晴らしい表現が生み出されるということって、多い気がする。
たくさんの表現を通して、ひとの魂に出会いたいな。
フラフラ族という、何ともすてきな名前の部族の音楽らしかった。
それが、もう、ほんとに、かっこいい。
あのリズム感はなんだろう。あのサウンドは何だろう。
体が反応する。感性が覚醒する。
ものすごくノリたい衝動に駆られたけれど、TAとして最前列に座っている私、恥の文化が染みついてしまっているらしい、なんか、のるにのれなかった。(残念)
音楽って、いいな~。
キューバ音楽もすてきだなあと思うけれど、ブルースって、すごく色々な音楽の潮流を生み出した音楽。てか、キューバ音楽もその流れを汲んでいるのかな。
ロックだって、ジャズだって、ブルースがなきゃ生まれなかったってことだもんなあ。
抑圧の中から、発露された賜物。
矛盾や抑圧から、素晴らしい表現が生み出されるということって、多い気がする。
たくさんの表現を通して、ひとの魂に出会いたいな。
2009年5月31日日曜日
2009年5月30日土曜日
宝を抱えたひとびと
書こうと思ってたこととは違うけれど、最近なんとなくよく思ってたことを書きます。
小説の面白さって、何だろうと考えることがある。(「小説」の正確の定義はわからないので、イメージの中の小説です。)
私は、思う。
たいてい、小説って、(ジャンルにもよるのかもしれないけれど)登場人物の、ひどく具体的で、個人的なお話だ。日常の中にいる、市井のひととして描かれる、人物。
何を今さらって感じだけれど、それが何より面白いんだ、と思う。
日常の、ほんの些細なできごとや、感情の変化。
あるところのある時間の、ある小話。
私は、そういうものが好きなんだ。
「個人」というものを、クローズアップして、そこに光を当てている。
当たり前だけれど、一人の人間が持っているエピソードって、ものすごい量だ。
ひとりの人間の中にも、一刻一秒単位で見聞きしたこと、考えてること、感じることがあり、それが刻々と変化していくというのだから、人生って、ものすごい波乱万丈で、膨大な物語だ、と思う。
どんなひとの中にも、そういうエピソードが詰まってるって考えると、たとえそれをその人自身が伝えなくても、また、そのひと自身が自分には伝えるようなことなどない、と思っても、伝える手段がなかったとしても、本当に、ひとりひとりの記憶や経験ていうのは、宝だわ、と最近思う。
だって、これまた当たり前だけれど、そのひとりひとりの持つ記憶や経験て、ひとつも同じものはないんだから。
それだけで、もう、すごく面白い。
だから、記憶や経験の量がたくさんある、お年を召した方、自分の祖父母や、親戚のおじいさんやおばあさんがご健在のひとは、
その、エピソードの「宝庫」から、
いろんな宝を「盗んで」ほしいと、思う。
きっと、面白いこととか、ジェネレーションギャップとか、不思議に感じることが、たくさん詰まってると思うから。
私は今修論の進め方に悩んでいるのだけれど、
少し「オーラル・ヒストリー」というものに興味がある。
市井のひとびとの中にあるもの、そこに、これからの社会のヒントを見出すことができたら、いいな、とか。
たとえば、すごく生活の知恵に長けた、村のご老人、とか。
もっともっとその手法についても、いろいろ勉強しなければならないし、調査対象も、どうするのか、きちんと決めないといけないけれど。
小説の面白さって、何だろうと考えることがある。(「小説」の正確の定義はわからないので、イメージの中の小説です。)
私は、思う。
たいてい、小説って、(ジャンルにもよるのかもしれないけれど)登場人物の、ひどく具体的で、個人的なお話だ。日常の中にいる、市井のひととして描かれる、人物。
何を今さらって感じだけれど、それが何より面白いんだ、と思う。
日常の、ほんの些細なできごとや、感情の変化。
あるところのある時間の、ある小話。
私は、そういうものが好きなんだ。
「個人」というものを、クローズアップして、そこに光を当てている。
当たり前だけれど、一人の人間が持っているエピソードって、ものすごい量だ。
ひとりの人間の中にも、一刻一秒単位で見聞きしたこと、考えてること、感じることがあり、それが刻々と変化していくというのだから、人生って、ものすごい波乱万丈で、膨大な物語だ、と思う。
どんなひとの中にも、そういうエピソードが詰まってるって考えると、たとえそれをその人自身が伝えなくても、また、そのひと自身が自分には伝えるようなことなどない、と思っても、伝える手段がなかったとしても、本当に、ひとりひとりの記憶や経験ていうのは、宝だわ、と最近思う。
だって、これまた当たり前だけれど、そのひとりひとりの持つ記憶や経験て、ひとつも同じものはないんだから。
それだけで、もう、すごく面白い。
だから、記憶や経験の量がたくさんある、お年を召した方、自分の祖父母や、親戚のおじいさんやおばあさんがご健在のひとは、
その、エピソードの「宝庫」から、
いろんな宝を「盗んで」ほしいと、思う。
きっと、面白いこととか、ジェネレーションギャップとか、不思議に感じることが、たくさん詰まってると思うから。
私は今修論の進め方に悩んでいるのだけれど、
少し「オーラル・ヒストリー」というものに興味がある。
市井のひとびとの中にあるもの、そこに、これからの社会のヒントを見出すことができたら、いいな、とか。
たとえば、すごく生活の知恵に長けた、村のご老人、とか。
もっともっとその手法についても、いろいろ勉強しなければならないし、調査対象も、どうするのか、きちんと決めないといけないけれど。
2009年5月29日金曜日
人生の先輩
今、書きたいネタが二つくらいあるから、まずはひとつめ。
いつも自分のことばかり書いてて自意識過剰っぷりがすごいやつだと思われるかもしれないけれど、実際たぶんそうなので仕方ない。笑
最近思ったこと。
私は年上の人と一緒にいるのがけっこう好きかもしれない。
もちろん、同じ年の仲の良い友達と一緒にいるのは楽しい。
でも、何だろう、自分より人生経験の長い人といるときの、安心感のようなもの。
生来人に寄りかかって頼りにして生きる性分だからか。(小賢しい奴だと斜め上の方から自分を見ているもう一人の自分…。)
ずっと、妹、だからか。
自分より人生経験を積んでいる人のお話を聞くのは勉強になる。(当たり前か。)
そして自分は年齢のわりに、少し年寄りじみた、というと語弊があるかもしれないけれど、何かどこか達観しているようなところがある、と思う。20数歳の若者の持つ若々しさとは違う、何か…。
もちろん子どもは好きだし、自分自身が子どもっぽいからこそ、年上のひとと一緒にいるのが好きだと思うのかもしれないけれど。
だから、さまざまな年齢の方々が一緒に勉強する、私の属する大学院は、そういう意味で私にとって魅力的な場所だ。
今までの学校とは違う。
社会人の方々から、密かにいろいろ学ばせていただこう、と思っている。
てか、課題やんなきゃ。
(ちーん)
いつも自分のことばかり書いてて自意識過剰っぷりがすごいやつだと思われるかもしれないけれど、実際たぶんそうなので仕方ない。笑
最近思ったこと。
私は年上の人と一緒にいるのがけっこう好きかもしれない。
もちろん、同じ年の仲の良い友達と一緒にいるのは楽しい。
でも、何だろう、自分より人生経験の長い人といるときの、安心感のようなもの。
生来人に寄りかかって頼りにして生きる性分だからか。(小賢しい奴だと斜め上の方から自分を見ているもう一人の自分…。)
ずっと、妹、だからか。
自分より人生経験を積んでいる人のお話を聞くのは勉強になる。(当たり前か。)
そして自分は年齢のわりに、少し年寄りじみた、というと語弊があるかもしれないけれど、何かどこか達観しているようなところがある、と思う。20数歳の若者の持つ若々しさとは違う、何か…。
もちろん子どもは好きだし、自分自身が子どもっぽいからこそ、年上のひとと一緒にいるのが好きだと思うのかもしれないけれど。
だから、さまざまな年齢の方々が一緒に勉強する、私の属する大学院は、そういう意味で私にとって魅力的な場所だ。
今までの学校とは違う。
社会人の方々から、密かにいろいろ学ばせていただこう、と思っている。
てか、課題やんなきゃ。
(ちーん)
2009年5月27日水曜日
生まれ故郷
私の目は、海外ばかりに向いていた気がする。
小さい頃から、海外への放浪癖のあった親(特に父)によって、色んな国に連れて行かれた。(敢えて「連れて行かれた」という表現を使うのは、幼かった私の意思とは関係なく、正に「連れて行かれた」と感じたからだ。)
当時は、必ずしもそれが楽しいことや嬉しいこととは思えなかった。地元の友達と、狭い地元の世界で遊んでいる方がよっぽど良いという気持ちもあったし、友達と話が合わなくなるのが、何より嫌だったからだ。「海外に行った」という経験談が、自慢のように思われるのがすごく嫌だった。(ちなみにうちはそんなに高い旅行はしない。)だから友達に海外へ行ったときの話はあまりしなかったし、できなかった。敢えてそういうことは言わず、どちらかというと隠してきた。
でも、私は今になって思う。小さい頃からの、異文化体験は、確実に今の自分のアイデンティティに影響を与えている、と。
日本で見たこともないような美しい自然や動物も見たし、日本では感じたことのなかったような違和感や怖さも感じた。
そんな経験をしてきた私にとって、海外に関心を持つことはごく普通のことであった。
だから、国際協力をしたいと思ったのかもしれないし、いわゆる開発途上国と呼ばれる国々での、持続可能な開発、とは何なのか、興味を持った。
けれど、私は最近思う。
自分は日本のことを何も知らない。
生まれてこの方ずっと東京という都市で育ってきた私は、日本の地方にすら、住んだことがない。
私はごく狭い世界で、ごく狭い「暮らし方」しか、知らないのだ。
「暮らす」というのは、本来もっと時間や労力を費やすはずのことだ、と私は思う。
エネルギー、食糧、全てを地方に供給してもらっている東京という都市の暮らしは、何かがおかしいに決まっている。
「暮らす」ための時間は、「稼ぐ」ための時間に取って代わられている。
そして毎日、プラスチック容器に入った食糧を消費して、大量のごみを出し続けている。
私には、もっと知らなければならないことがたくさんある。
いつか、東京を出ようと思う。
小さい頃から、海外への放浪癖のあった親(特に父)によって、色んな国に連れて行かれた。(敢えて「連れて行かれた」という表現を使うのは、幼かった私の意思とは関係なく、正に「連れて行かれた」と感じたからだ。)
当時は、必ずしもそれが楽しいことや嬉しいこととは思えなかった。地元の友達と、狭い地元の世界で遊んでいる方がよっぽど良いという気持ちもあったし、友達と話が合わなくなるのが、何より嫌だったからだ。「海外に行った」という経験談が、自慢のように思われるのがすごく嫌だった。(ちなみにうちはそんなに高い旅行はしない。)だから友達に海外へ行ったときの話はあまりしなかったし、できなかった。敢えてそういうことは言わず、どちらかというと隠してきた。
でも、私は今になって思う。小さい頃からの、異文化体験は、確実に今の自分のアイデンティティに影響を与えている、と。
日本で見たこともないような美しい自然や動物も見たし、日本では感じたことのなかったような違和感や怖さも感じた。
そんな経験をしてきた私にとって、海外に関心を持つことはごく普通のことであった。
だから、国際協力をしたいと思ったのかもしれないし、いわゆる開発途上国と呼ばれる国々での、持続可能な開発、とは何なのか、興味を持った。
けれど、私は最近思う。
自分は日本のことを何も知らない。
生まれてこの方ずっと東京という都市で育ってきた私は、日本の地方にすら、住んだことがない。
私はごく狭い世界で、ごく狭い「暮らし方」しか、知らないのだ。
「暮らす」というのは、本来もっと時間や労力を費やすはずのことだ、と私は思う。
エネルギー、食糧、全てを地方に供給してもらっている東京という都市の暮らしは、何かがおかしいに決まっている。
「暮らす」ための時間は、「稼ぐ」ための時間に取って代わられている。
そして毎日、プラスチック容器に入った食糧を消費して、大量のごみを出し続けている。
私には、もっと知らなければならないことがたくさんある。
いつか、東京を出ようと思う。
2009年5月25日月曜日
雨とわたし
雨が降る。
裾と靴をすっかりびしょぬれにしながら歩く。
雷鳴。
雨って、うっとおしい。
でも、気持ちが少し落ち着く気がする。
傘をさしても濡れてしまう程の雨脚の中帰ったあとの、この気持ちの落ち着きようは何だろう。
「早く寝ればいいのに。」と心の中で思いながら、キーボードを叩いている。
雷は、観察している分には楽しい。
身近な自然現象だと思う。
爆弾が炸裂したかのような音がした。
そのとき私は自然の脅威を垣間見た気がした。
都市にいる私は、そういう自然の脅威を、普段忘れて生活しているのだ、ということをふと思いだす。
この文章に別に主張はない。
ただとりとめもなくことばを書きたかっただけ。
考えなければいけないこと、毎日変化する様々な社会現象に思うことは色々ある。
でも、今はここにとりとめもないことを書き連ねたい気分だ。
一日の終わりに、自分の頭やこころをすっきりさせるための、作業である。
裾と靴をすっかりびしょぬれにしながら歩く。
雷鳴。
雨って、うっとおしい。
でも、気持ちが少し落ち着く気がする。
傘をさしても濡れてしまう程の雨脚の中帰ったあとの、この気持ちの落ち着きようは何だろう。
「早く寝ればいいのに。」と心の中で思いながら、キーボードを叩いている。
雷は、観察している分には楽しい。
身近な自然現象だと思う。
爆弾が炸裂したかのような音がした。
そのとき私は自然の脅威を垣間見た気がした。
都市にいる私は、そういう自然の脅威を、普段忘れて生活しているのだ、ということをふと思いだす。
この文章に別に主張はない。
ただとりとめもなくことばを書きたかっただけ。
考えなければいけないこと、毎日変化する様々な社会現象に思うことは色々ある。
でも、今はここにとりとめもないことを書き連ねたい気分だ。
一日の終わりに、自分の頭やこころをすっきりさせるための、作業である。
2009年5月20日水曜日
現場
今日国際NGO発展論という授業で先生がおっしゃったこと、ことばは正確ではないかもしれないけれど以下のような趣旨だった。
「人間は美しくもあり、汚くもある。最後は自分、なのだけれど、愛他精神もある。そのせめぎ合いなんですね。」
結局、「人間て何だろう。」これはどの学問分野にも共通する普遍の問いなのだろうな。
この土日に行った研究科の合宿でも、ディスカッションの中でそういう話が出た。
大学院で勉強している間は、中立の立場でいられる。
何かに加担することなく、考えていられる。
でもあたしは選択しなければならない。
何者かにならないといけないんだ。
それをいつも考えてしまう。
上のことばの先生も、おっしゃっていたことだけれど、
自分の考えを形成するのはやはり「現場」なのだ。
私には、きっと「現場」が必要なんだと思う。
色んな矛盾や疑問が渦巻いていても、自分の目で見、感じたことでないと、自分の考えは作られないし、信じることもできない。
「現場」を見つけ、「現場」に出よう。
社会人の学生と、私のような学部あがりの学生の決定的な違いは、「現場経験」だと思う。
発することばの持つ重みが違う気がする。
今日の授業でも、NGOやNPOの職員をしながら学んでいる学生の方は、問題意識が明確だと思った。
もやもやしている、この頭でっかちな自分が、情けない、と思った。
理屈ばかりを勉強したって、何もわかっていないのだ。
「現場」に出よう。
「人間は美しくもあり、汚くもある。最後は自分、なのだけれど、愛他精神もある。そのせめぎ合いなんですね。」
結局、「人間て何だろう。」これはどの学問分野にも共通する普遍の問いなのだろうな。
この土日に行った研究科の合宿でも、ディスカッションの中でそういう話が出た。
大学院で勉強している間は、中立の立場でいられる。
何かに加担することなく、考えていられる。
でもあたしは選択しなければならない。
何者かにならないといけないんだ。
それをいつも考えてしまう。
上のことばの先生も、おっしゃっていたことだけれど、
自分の考えを形成するのはやはり「現場」なのだ。
私には、きっと「現場」が必要なんだと思う。
色んな矛盾や疑問が渦巻いていても、自分の目で見、感じたことでないと、自分の考えは作られないし、信じることもできない。
「現場」を見つけ、「現場」に出よう。
社会人の学生と、私のような学部あがりの学生の決定的な違いは、「現場経験」だと思う。
発することばの持つ重みが違う気がする。
今日の授業でも、NGOやNPOの職員をしながら学んでいる学生の方は、問題意識が明確だと思った。
もやもやしている、この頭でっかちな自分が、情けない、と思った。
理屈ばかりを勉強したって、何もわかっていないのだ。
「現場」に出よう。
2009年5月15日金曜日
備忘録
毎日毎日思うことはたくさんある。そんなの当たり前だ。でもひとはどんどん忘却して生きていく生き物だから、あたしはたまにこうやって、備忘録のように、懺悔するかのように、出てくる思いを書きとめておく必要に駆られる。傷つけたひとやもの、ごめんなさい、と言いながら。
あたしは表現しないと生きれない人間みたいだ。
(でもみんな、生きることは表現することだと思う。否応なく。)
「備忘録」のように、と言ったけれど、敬愛するトム・ヨークも、ひとは何かを消して、忘れて生きていくという意味を込めて"The Eraser"というタイトルをソロアルバムにつけたらしい。すごく、分かる気がする。
あたしはここでは論理的な思考をあまりしないようにする。
感性のままに書いてしまう。あたしのことばで、たわいもない、どうでもいいようなことを徒然なるままに。
そうやって帳尻を合わせてなんとかやっているんだ、たぶん。
最近髪を切った。
「ぱっつん」が好き。
「幸福論」のときの椎名林檎は、中学生のあたしへの衝撃だった。なんとなくそれもあっての、「ぱっつん」
自殺者が過去最多となったと、今日の夕刊が報じていた。
この国や世界の行く末を、見守っていられない。見守るなんてだめ。
あたしはどうこの社会と関わっていけるのだろうか。
ただ思うだけじゃなく、ただ憂うだけじゃなく、世界や社会と関わっていきたい。
きよしろうさんが若いひとに夢を持ってほしいって言ってたから持とうと思った。笑
あたしは表現しないと生きれない人間みたいだ。
(でもみんな、生きることは表現することだと思う。否応なく。)
「備忘録」のように、と言ったけれど、敬愛するトム・ヨークも、ひとは何かを消して、忘れて生きていくという意味を込めて"The Eraser"というタイトルをソロアルバムにつけたらしい。すごく、分かる気がする。
あたしはここでは論理的な思考をあまりしないようにする。
感性のままに書いてしまう。あたしのことばで、たわいもない、どうでもいいようなことを徒然なるままに。
そうやって帳尻を合わせてなんとかやっているんだ、たぶん。
最近髪を切った。
「ぱっつん」が好き。
「幸福論」のときの椎名林檎は、中学生のあたしへの衝撃だった。なんとなくそれもあっての、「ぱっつん」
自殺者が過去最多となったと、今日の夕刊が報じていた。
この国や世界の行く末を、見守っていられない。見守るなんてだめ。
あたしはどうこの社会と関わっていけるのだろうか。
ただ思うだけじゃなく、ただ憂うだけじゃなく、世界や社会と関わっていきたい。
きよしろうさんが若いひとに夢を持ってほしいって言ってたから持とうと思った。笑
2009年5月11日月曜日
まぎれもないこと
嬉しいという気持ち、もやもやしている気持ち、沈んだ気持ち、違和感。そういうまぎれもない自分の感性を、大事にしたい。
そういう感性にうそをつかないで生きていくことで、誰かに何かを与えられたらうれしい。
抽象的だけれど、うまく言語化できないけれど、そんな風に思う。
とてもシンプルなことだけれど、自分も含めた多くのひとは、油断するとすぐ自分のそういう感性を、隠してしまう。隠してしまえる。
「おかしいな」「変だな」と思いつつ、周りの目とか、何か自分が打撃を受けるのではないかということを気にして、無理やり隠し通してしまう。
それは、実に恐ろしいことでもある。
家族を大切にしたい、友達を大切にしたい、風が気持ちいい、とか、そういうシンプルで、あまりに身近すぎて、あんまり意識もしないし、ことばにしようとも思わないようなたわいもない、些細なこと。
でも、それは、まぎれもなく、自分の感性で信じることができる。
自分の感性を大切にすることを、意識していこう。
それは強くなることと、イコールになるんじゃないかって、思う。
そういう感性にうそをつかないで生きていくことで、誰かに何かを与えられたらうれしい。
抽象的だけれど、うまく言語化できないけれど、そんな風に思う。
とてもシンプルなことだけれど、自分も含めた多くのひとは、油断するとすぐ自分のそういう感性を、隠してしまう。隠してしまえる。
「おかしいな」「変だな」と思いつつ、周りの目とか、何か自分が打撃を受けるのではないかということを気にして、無理やり隠し通してしまう。
それは、実に恐ろしいことでもある。
家族を大切にしたい、友達を大切にしたい、風が気持ちいい、とか、そういうシンプルで、あまりに身近すぎて、あんまり意識もしないし、ことばにしようとも思わないようなたわいもない、些細なこと。
でも、それは、まぎれもなく、自分の感性で信じることができる。
自分の感性を大切にすることを、意識していこう。
それは強くなることと、イコールになるんじゃないかって、思う。
2009年5月4日月曜日
神さまのはなし
何か、すごいタイトルつけたな~って、思う笑。
「原罪」という、キリスト教の考え方が、あると思います。
ひとは罪を持って生まれてきて、イエスはその罪を購うために十字架にかけられた、という話。
私は、何か宗教を信仰している身ではないけれど、
何だかこの考え方に、自分は近いような気が、ときどきする。
自分は、罪深い存在だ、と。
ひとを傷つけ、踏み台にし、あたしの消費する食物やものによって、どこかのだれかが傷つき、苦しんでいる。
何だか、その思いは、絶対に消えることはない気もする。
けれど、どう生きるべきか、ずっとこれからも考え、悩み続けていくことを、したい。
私は弱い人間だから、ときどき神さまがいればいいのに、なんて思う。
そしたら、ほんの少しは、気が楽になるのかな、とか思う。
その神の基準で行動すれば。
だけど、あたしには今のところ、神さまはいない。
だからあたしは、これからも生まれた意味や、存在意義や、自分というアイデンティティについて、常に考えていくのだろう。
何が最善で、何がいけないのか、常々ずっと、自分の頭で考えていくのだろう。
そのプロセスは終わらないし、終わらせてはいけない、と思う。
「原罪」という、キリスト教の考え方が、あると思います。
ひとは罪を持って生まれてきて、イエスはその罪を購うために十字架にかけられた、という話。
私は、何か宗教を信仰している身ではないけれど、
何だかこの考え方に、自分は近いような気が、ときどきする。
自分は、罪深い存在だ、と。
ひとを傷つけ、踏み台にし、あたしの消費する食物やものによって、どこかのだれかが傷つき、苦しんでいる。
何だか、その思いは、絶対に消えることはない気もする。
けれど、どう生きるべきか、ずっとこれからも考え、悩み続けていくことを、したい。
私は弱い人間だから、ときどき神さまがいればいいのに、なんて思う。
そしたら、ほんの少しは、気が楽になるのかな、とか思う。
その神の基準で行動すれば。
だけど、あたしには今のところ、神さまはいない。
だからあたしは、これからも生まれた意味や、存在意義や、自分というアイデンティティについて、常に考えていくのだろう。
何が最善で、何がいけないのか、常々ずっと、自分の頭で考えていくのだろう。
そのプロセスは終わらないし、終わらせてはいけない、と思う。
Yoyogi park
今日は代々木公園に行きました。
GWで原宿はすごいひと…
代々木公園も、まるで何かの祭りかと思うほど、芝生にひとひと…
でも、緑の木陰が気持ち良かった。
他のひとも、みんなゆるゆるしているように見えた。
変な話だけれど、私は体育座りが好きだ。
体育座りに限らず、何故か、地べたに座っている感覚が好き。
だから、よく家でも地べたに座って本を読んだりする笑
今日も、シートの上で、胡坐かいたり、体育座りなんかをしながら、カラスの行水風景を見たりしていた。
そしたら、気持ち良くて、酒の一杯でもあおりたくなってきた。
まあ、それはよしとして…
代々木公園は、いい。
パンを買っていって、適当なところにシートを敷いて、カラスにパンを狙われまいとしつつ、食べながらぼーっとした。
色んなひとが色んなことを思い思いにして、休日を過ごしていた。
ジャグリングの練習をするひと、縄跳びで遊ぶひと、サッカーボールを池ポチャしちゃって一所懸命とろうと頑張って逆に波がたってボールを遠ざけてしまった子ども。。
どこからか、バグパイプの音も聞こえた。
都会のど真ん中にある、緑の空間。
あたしはあの雰囲気が好きだ。
なんか、色んなものを、吸収してくれているような気がする。あたしの勝手な想像だけれど。
ただ単に、あたしは緑に餓えているのだろうか。
感覚的に、木っていいなあと思う。
ただ、そこにある、というだけで。
今日はもう一本書こうかな。
GWで原宿はすごいひと…
代々木公園も、まるで何かの祭りかと思うほど、芝生にひとひと…
でも、緑の木陰が気持ち良かった。
他のひとも、みんなゆるゆるしているように見えた。
変な話だけれど、私は体育座りが好きだ。
体育座りに限らず、何故か、地べたに座っている感覚が好き。
だから、よく家でも地べたに座って本を読んだりする笑
今日も、シートの上で、胡坐かいたり、体育座りなんかをしながら、カラスの行水風景を見たりしていた。
そしたら、気持ち良くて、酒の一杯でもあおりたくなってきた。
まあ、それはよしとして…
代々木公園は、いい。
パンを買っていって、適当なところにシートを敷いて、カラスにパンを狙われまいとしつつ、食べながらぼーっとした。
色んなひとが色んなことを思い思いにして、休日を過ごしていた。
ジャグリングの練習をするひと、縄跳びで遊ぶひと、サッカーボールを池ポチャしちゃって一所懸命とろうと頑張って逆に波がたってボールを遠ざけてしまった子ども。。
どこからか、バグパイプの音も聞こえた。
都会のど真ん中にある、緑の空間。
あたしはあの雰囲気が好きだ。
なんか、色んなものを、吸収してくれているような気がする。あたしの勝手な想像だけれど。
ただ単に、あたしは緑に餓えているのだろうか。
感覚的に、木っていいなあと思う。
ただ、そこにある、というだけで。
今日はもう一本書こうかな。
2009年5月2日土曜日
ことば
~したい、がたくさんある。
やさしくなりたい。
強くなりたい。
ちょっとした私のことばが誰かを傷つけているかもしれない。
口は災いのもと、とはよく言ったものだ、と思う。
ことばは、力を持ってる。良くも悪くも。
ことばは、そのひとであり、ことばはたましいだと思う。
私はもっと、ことばを大事にしなければならない、と思う。
やさしくなることと、強くなること。
それはことばと深く関係していると思う。
強いひとはきっとことばを使うとき、安易には用いない。
自分の素直な気持ちとは相容れないことばを、安易に使わないだろう。
ことばをたたき売りしちゃいけない、と思う。
自分の発したそのことばが、他のひとにとってどんな意味を持つか。
わからなくても、いっぱい考えて、伝わるように試行錯誤すること。
それが大切なんだと思う。
やさしくなりたい。
強くなりたい。
ちょっとした私のことばが誰かを傷つけているかもしれない。
口は災いのもと、とはよく言ったものだ、と思う。
ことばは、力を持ってる。良くも悪くも。
ことばは、そのひとであり、ことばはたましいだと思う。
私はもっと、ことばを大事にしなければならない、と思う。
やさしくなることと、強くなること。
それはことばと深く関係していると思う。
強いひとはきっとことばを使うとき、安易には用いない。
自分の素直な気持ちとは相容れないことばを、安易に使わないだろう。
ことばをたたき売りしちゃいけない、と思う。
自分の発したそのことばが、他のひとにとってどんな意味を持つか。
わからなくても、いっぱい考えて、伝わるように試行錯誤すること。
それが大切なんだと思う。
2009年4月29日水曜日
かっこよくなりたいんだ
かっこよくなりてえ。
と、すごい勢いで思います。
年をとるのが怖い。
と、無駄に焦りを感じます、このごろ。
保身に回らない、自分を規定しない、いつまでもぐるぐるし続ける、かっこいい大人になりたい、と心の底から思います。
そんなことを考えていると、毎日体も心も引きちぎれそうになります。
創造したい、表現したい、自分の思いをひとに伝え、分かち合いたい。
私の中の、欲望、欲望。
欲望は、原動力でもある。
それはひねくれてて、妖しくて、無限に続いてる、闇であり、光でもある。
生きているという感覚と表裏一体。
酷使してやる。
と、すごい勢いで思います。
年をとるのが怖い。
と、無駄に焦りを感じます、このごろ。
保身に回らない、自分を規定しない、いつまでもぐるぐるし続ける、かっこいい大人になりたい、と心の底から思います。
そんなことを考えていると、毎日体も心も引きちぎれそうになります。
創造したい、表現したい、自分の思いをひとに伝え、分かち合いたい。
私の中の、欲望、欲望。
欲望は、原動力でもある。
それはひねくれてて、妖しくて、無限に続いてる、闇であり、光でもある。
生きているという感覚と表裏一体。
酷使してやる。
2009年4月28日火曜日
悩むことを選べ
胃が痛い。
実際に胃が痛んでいるわけでは実はないけれど、比喩的にそう表すのにふさわしい精神状態な気がする。
限られた時間の中で、自分は一体何ができるのであろう。
自分の時間のコントロールの下手さにうんざりする。
自分の考えていることを表現することの下手さにうんざりする。
色々なものごとに、私は時間がかかりすぎる。
当たり前だけれど、考えてしまうと行動は遅くなる。
何に捕らわれていて、私は苦しいのだろう。
誰に気を使っていて、自分のことを表現できないのだろう。
そんな気がしているだけで、ひとには伝わっているのか?
私は自分がそうだと感じる方向に、ひたすら歩いて行けば良いだけのことじゃないか。
批判を恐れずに、行けば良いだけのことじゃないか。
ときどき私は自分がとてつもなくずる賢い人間に思える。
自分は悩むことをやめて、ひとを利用して自分の幸福を追い求めて生きているだけではないか、と。
何も知らないような顔をしながら、自分は誰も傷つけていないかのごとく、のうのうと。
悩め、自分。
実際に胃が痛んでいるわけでは実はないけれど、比喩的にそう表すのにふさわしい精神状態な気がする。
限られた時間の中で、自分は一体何ができるのであろう。
自分の時間のコントロールの下手さにうんざりする。
自分の考えていることを表現することの下手さにうんざりする。
色々なものごとに、私は時間がかかりすぎる。
当たり前だけれど、考えてしまうと行動は遅くなる。
何に捕らわれていて、私は苦しいのだろう。
誰に気を使っていて、自分のことを表現できないのだろう。
そんな気がしているだけで、ひとには伝わっているのか?
私は自分がそうだと感じる方向に、ひたすら歩いて行けば良いだけのことじゃないか。
批判を恐れずに、行けば良いだけのことじゃないか。
ときどき私は自分がとてつもなくずる賢い人間に思える。
自分は悩むことをやめて、ひとを利用して自分の幸福を追い求めて生きているだけではないか、と。
何も知らないような顔をしながら、自分は誰も傷つけていないかのごとく、のうのうと。
悩め、自分。
2009年4月26日日曜日
All I Need by radiohead
2008年にMTVが人身取引撲滅キャンペーンを行ったそうだ。それでradioheadのこの曲とPVが使われたみたい。
重いテーマだけれど、このような伝え方にひかれます。
重いテーマだけれど、このような伝え方にひかれます。
2009年4月25日土曜日
コミュニケーションということ
コミュニケーションというテーマは、漠としているけれど、というか、何でもありと言えば何でもありな気がするけれど、本質的で興味深い。
本によれば「誤解」もコミュニケーションである、ということだ。
つまり、受け手に、送り手の何らかのメッセージやアクションの意図がうまく伝わらなかったとしても、それはコミュニケーションをしたことになるということ。
さらに、何もしなくても、それはコミュニケーションだという。
「沈黙」「存在」は、コミュニケーションだということ。
人は、「コミュニケーションをしないわけにはいかない」ということらしい。
じゃあ、生きることは、コミュニケーションするって、ことじゃないか。
すごく広義だなあ。
非常に簡潔なことでありながら、小難しく説明しているのが、何だか面白い、と思う。
ことばはときに、厄介だ。
ひとが経験する場で、ことばがない方が良いときも、多々あると思う。
ことば以外のコミュニケーションを、あるひとは「非言語コミュニケーション」と名付けたみたい。
この世界は、非言語コミュニケーションであふれてる。
というか、世界はコミュニケーションであふれてる。
「コミュニケーション」という考え方は面白い。
「ことば」というものへの興味は尽きないし、ある意味その対極に位置しているとも言える、ことばを発しない「自然」も、好き。
何で、日の光や植物の緑を美しいと感じたり、風が気持ち良いと感じたりするんだろう。
「コミュニケーション」は魔物だと、思う。
本によれば「誤解」もコミュニケーションである、ということだ。
つまり、受け手に、送り手の何らかのメッセージやアクションの意図がうまく伝わらなかったとしても、それはコミュニケーションをしたことになるということ。
さらに、何もしなくても、それはコミュニケーションだという。
「沈黙」「存在」は、コミュニケーションだということ。
人は、「コミュニケーションをしないわけにはいかない」ということらしい。
じゃあ、生きることは、コミュニケーションするって、ことじゃないか。
すごく広義だなあ。
非常に簡潔なことでありながら、小難しく説明しているのが、何だか面白い、と思う。
ことばはときに、厄介だ。
ひとが経験する場で、ことばがない方が良いときも、多々あると思う。
ことば以外のコミュニケーションを、あるひとは「非言語コミュニケーション」と名付けたみたい。
この世界は、非言語コミュニケーションであふれてる。
というか、世界はコミュニケーションであふれてる。
「コミュニケーション」という考え方は面白い。
「ことば」というものへの興味は尽きないし、ある意味その対極に位置しているとも言える、ことばを発しない「自然」も、好き。
何で、日の光や植物の緑を美しいと感じたり、風が気持ち良いと感じたりするんだろう。
「コミュニケーション」は魔物だと、思う。
2009年4月24日金曜日
パーム油
大学院の授業で「異文化コミュニケーション論」というものがある。
なかなか哲学的な授業で、悶々とした空気が漂っている。
よくある答えのない議論。「日本人とは、誰のことか。」「日本文化とは何か。そのようなものは果たして存在するのか。」「文化とは何をもって文化なのか。」「日本=集団主義、アメリカ=個人主義というような、文化相対主義的な捉え方は、危うさがある。」等々。。
今日は「開発コミュニケーション論」という授業で、パーム油のことを扱った。
化粧品やシャンプー、石鹸や洗剤、そしてポテトチップスやカップラーメン、チョコ等の食品に使用されている植物性油脂の多くは、パーム油だという。
植物性なので、環境にやさしいというイメージで、日本ではよく知られている。
今日授業で見たビデオでは、マレーシアのボルネオ島で、パーム油のプランテーションによって森林伐採が進み、その森に生息する象の住処が減少し、パーム油の木の実を食べようとする象がプランテーションに入ってきてしまうことで、そのプランテーションで働く住民が困り、象を驚かせて追い払ったりしているという映像が流れていた。
またしても、知ってしまった、この構造。
「環境にやさしい」って、一体、何だろう。
そのビデオを見たあと、班でロールプレイをした。パーム油のプランテーション開発を行うための会議を行うという設定である。
開発賛成派は、マレーシア政府の役人の役、地元企業の役、開発地付近の先住民の役、日本の洗剤メーカーの役。
反対派は開発地付近の先住民の役、環境NGOの役。
それぞれの主張、論点があり、当たり前だけれど、なかなか結論は出ない。
私は日本の洗剤メーカーの役だったけれど、なかなか意見が言えない。自分の意見とは違う役をやるのはなかなか難しかった。
ボルネオは野生動物の宝庫だという。
私はまだ勉強不足だから細かいことはあまりわからない。
でも、持続可能な社会づくりという壁に、現在の社会、日本の社会、世界の構造がぶつかっているということは確かであろう。私はいつもそれを思っている。
ESD(Education for Sustainable Development;持続可能な開発のための教育)というものに興味を持ったのも、そのような関心からである。
知っていても、お腹がすけば、普通にチョコを買って食べる自分。(チョコは児童労働や、労働問題を孕んでいる可能性もある。)
この矛盾。
あたしは、今のところ、知らないふりをして、忘れたふりをして、生きるしかないのだ、と思う。
実際、フェアトレードの商品や、環境に配慮した有機の食品等は、値段も張る。
環境教育とかESDとか、言ってる自分は何なんだ、と思うけれど、
私はどうにか、どうにか、オルタナティブな世界をつくっていく一員になれたら、と
思っている。
たくさんの矛盾を、抱えながら。
なかなか哲学的な授業で、悶々とした空気が漂っている。
よくある答えのない議論。「日本人とは、誰のことか。」「日本文化とは何か。そのようなものは果たして存在するのか。」「文化とは何をもって文化なのか。」「日本=集団主義、アメリカ=個人主義というような、文化相対主義的な捉え方は、危うさがある。」等々。。
今日は「開発コミュニケーション論」という授業で、パーム油のことを扱った。
化粧品やシャンプー、石鹸や洗剤、そしてポテトチップスやカップラーメン、チョコ等の食品に使用されている植物性油脂の多くは、パーム油だという。
植物性なので、環境にやさしいというイメージで、日本ではよく知られている。
今日授業で見たビデオでは、マレーシアのボルネオ島で、パーム油のプランテーションによって森林伐採が進み、その森に生息する象の住処が減少し、パーム油の木の実を食べようとする象がプランテーションに入ってきてしまうことで、そのプランテーションで働く住民が困り、象を驚かせて追い払ったりしているという映像が流れていた。
またしても、知ってしまった、この構造。
「環境にやさしい」って、一体、何だろう。
そのビデオを見たあと、班でロールプレイをした。パーム油のプランテーション開発を行うための会議を行うという設定である。
開発賛成派は、マレーシア政府の役人の役、地元企業の役、開発地付近の先住民の役、日本の洗剤メーカーの役。
反対派は開発地付近の先住民の役、環境NGOの役。
それぞれの主張、論点があり、当たり前だけれど、なかなか結論は出ない。
私は日本の洗剤メーカーの役だったけれど、なかなか意見が言えない。自分の意見とは違う役をやるのはなかなか難しかった。
ボルネオは野生動物の宝庫だという。
私はまだ勉強不足だから細かいことはあまりわからない。
でも、持続可能な社会づくりという壁に、現在の社会、日本の社会、世界の構造がぶつかっているということは確かであろう。私はいつもそれを思っている。
ESD(Education for Sustainable Development;持続可能な開発のための教育)というものに興味を持ったのも、そのような関心からである。
知っていても、お腹がすけば、普通にチョコを買って食べる自分。(チョコは児童労働や、労働問題を孕んでいる可能性もある。)
この矛盾。
あたしは、今のところ、知らないふりをして、忘れたふりをして、生きるしかないのだ、と思う。
実際、フェアトレードの商品や、環境に配慮した有機の食品等は、値段も張る。
環境教育とかESDとか、言ってる自分は何なんだ、と思うけれど、
私はどうにか、どうにか、オルタナティブな世界をつくっていく一員になれたら、と
思っている。
たくさんの矛盾を、抱えながら。
2009年4月17日金曜日
2009年4月12日日曜日
2009年4月10日金曜日
ぐちぐち
私は何故、頭を使い、理詰めで物事を喋り、判断し、批判を繰り返してばかりいる人のことを、よく思えないのであろうか。
私は、単純で、感情人間だと、自分のことを思う。
私は違いというものを認められていないのか。
感情だけであり、理念だけであるということの危うさも知っているはずなのに。
私は、行動する人が好きな傾向にあるらしい。
だから、働きかけないし、状況を変えようとしないのに、口で批判ばかりしている人は「うぅ~ん。」と思ってしまう。
て、それは兄なんですが。
少なくとも、私には兄がそのように見える。
この手に負えなさは、なかなか経験しないとわからないのではないかと思う笑。
何を言っても反論される。何を言っても納得してくれない。
会話になってないかも。
愚痴を書くと心が汚れていく気がするので、やめます…
でも、弱い私は、ときどき、書きたくなるのだ。
私は、単純で、感情人間だと、自分のことを思う。
私は違いというものを認められていないのか。
感情だけであり、理念だけであるということの危うさも知っているはずなのに。
私は、行動する人が好きな傾向にあるらしい。
だから、働きかけないし、状況を変えようとしないのに、口で批判ばかりしている人は「うぅ~ん。」と思ってしまう。
て、それは兄なんですが。
少なくとも、私には兄がそのように見える。
この手に負えなさは、なかなか経験しないとわからないのではないかと思う笑。
何を言っても反論される。何を言っても納得してくれない。
会話になってないかも。
愚痴を書くと心が汚れていく気がするので、やめます…
でも、弱い私は、ときどき、書きたくなるのだ。
2009年4月8日水曜日
春に思う
人っていうのは、
生きること、生きていることの意味もわからずに、
ただ、
誰かに自分の存在を肯定してもらいたくて、自分の存在を必要だと感じてもらいたくて、
生きてる気がする。
それを意識するにせよ、しないにせよ。
人っていうのは、ひとりぼっちだ。
さみしさを、互いに埋めたくて、
社会ってものをつくる。
そういう生き物なんだ、と
思う。
桜の薄ピンクに、もう少しずつ緑が混ざってきた。
ぽかぽかとした春、冷たい冬を乗りきって一安心だけど、
日本ではほっとするよりそわそわする始まりの季節だ。
私は何だか、
このぽかぽか陽気と、自分のそわそわとした不安定な気持ちがちぐはぐで、
早く夏にならないかなー、と
好きな季節のはずだった春に
初めて思ったのだった。
生きること、生きていることの意味もわからずに、
ただ、
誰かに自分の存在を肯定してもらいたくて、自分の存在を必要だと感じてもらいたくて、
生きてる気がする。
それを意識するにせよ、しないにせよ。
人っていうのは、ひとりぼっちだ。
さみしさを、互いに埋めたくて、
社会ってものをつくる。
そういう生き物なんだ、と
思う。
桜の薄ピンクに、もう少しずつ緑が混ざってきた。
ぽかぽかとした春、冷たい冬を乗りきって一安心だけど、
日本ではほっとするよりそわそわする始まりの季節だ。
私は何だか、
このぽかぽか陽気と、自分のそわそわとした不安定な気持ちがちぐはぐで、
早く夏にならないかなー、と
好きな季節のはずだった春に
初めて思ったのだった。
2009年4月6日月曜日
牙をむく
昨日(正確にはすでに一昨日)、以前このブログでも書いたアートチーム・ピエロの筆と、Blue Birdsで立ち上がりつつある新企画に向けてのMTGを行った。
私が企画の意図として主張したことは、「普通のこと」だと言われた。マイナスの意味でだ。(少なくとも私はマイナスの意味として受けとった。)
確かに、そうかもしれない。
でも、私は、それを今だからこそ言わなければいけないのではないか、と思っていた。
本当に「普通」のこととして、現実に共有されていることなのか、という疑問がわいた。
それは、「自分という存在がかけがえのないものであるということを認めることで、他人という存在も同じようにかけがえのないものであるということを認める、ということ。」
「表現活動は、自分独自の価値観でいい、という思いを育てるのに、役立つのではないか」
すごく平たく言えばそんな感じだ。
確かに、そういうことを言う大人はたくさんいるように感じる。
環境問題なんかと同じように、きれいごとの謳い文句のような位置にあるかもしれない。
「心に響かない、届かないことば」のひとつになってしまっているかもしれない。
それは十分にわかっている。
でも、このような言葉を全面に押し出そうと考えていたわけでは決してない。
そんなことを全面に押し出されたらどん引きだってわかっている。
自分がもしそれを言われる立場だったら、「何、この人」と思うかもしれない。
要は、それをどう体をもって示せるのか、ということだろう。
ピエロのみんなが言うことは、いつもすごく腑に落ちる。
考えていることは、すごく似ていると思う。
彼らと自分の違いは、それを体現しているかどうかというところだ。
ピエロのみんなは、確実に体現している。
彼らの存在であったり、人間性であったりは、彼らのことばとなんら矛盾するものがない。
だからであろう。彼らのことばすっと聞いている人の体に入ってくる気がする。
ああ、書くと整理される。
もやもやとしたものが、なんとなく、クリアーになってくる。
私は、あまり人を嫌いにならない。そして、根拠があって批判するのとは違う、人の悪口は嫌いだ。
どの人も、それぞれ面白いし、すてきだと思うからだ。
「あの人は嫌だ」とか「うざい」とか、冗談じゃない感じで言ったり、そんなにはっきりではなくても、人のことを馬鹿にしたり、明らかに奇異な目で見たり、という人を見ると、何故そんなに簡単に人のことを侮蔑したりできるのだろう、と思い、悲しくなったりする。
好きなものを好き、楽しいものを楽しい、美しいものを美しい、悲しいことを悲しい、苦しいことを苦しいって言って生きていれば、いいじゃん。何で他人のことがそんなに気になるの、と思うのだ。
私はそういうことが目についてしまう。
でも、そういう「みんな違ってみんないい」みたいなことを言うのは、嘘つきで、自分の意見がなくて、八方美人だと思う人が多いのだろうな、と思う。
だけど、私は本気でそう思う。というか、そういう風にしか思えない。
ああ、何だかまたそれてきた…
桜がきれいに咲いているのを見るその瞬間は、無心になれる気がして、心がふっと楽になる。
今日のブログは、自分なりに、少しだけ牙をむいてみたつもりだ。
私が企画の意図として主張したことは、「普通のこと」だと言われた。マイナスの意味でだ。(少なくとも私はマイナスの意味として受けとった。)
確かに、そうかもしれない。
でも、私は、それを今だからこそ言わなければいけないのではないか、と思っていた。
本当に「普通」のこととして、現実に共有されていることなのか、という疑問がわいた。
それは、「自分という存在がかけがえのないものであるということを認めることで、他人という存在も同じようにかけがえのないものであるということを認める、ということ。」
「表現活動は、自分独自の価値観でいい、という思いを育てるのに、役立つのではないか」
すごく平たく言えばそんな感じだ。
確かに、そういうことを言う大人はたくさんいるように感じる。
環境問題なんかと同じように、きれいごとの謳い文句のような位置にあるかもしれない。
「心に響かない、届かないことば」のひとつになってしまっているかもしれない。
それは十分にわかっている。
でも、このような言葉を全面に押し出そうと考えていたわけでは決してない。
そんなことを全面に押し出されたらどん引きだってわかっている。
自分がもしそれを言われる立場だったら、「何、この人」と思うかもしれない。
要は、それをどう体をもって示せるのか、ということだろう。
ピエロのみんなが言うことは、いつもすごく腑に落ちる。
考えていることは、すごく似ていると思う。
彼らと自分の違いは、それを体現しているかどうかというところだ。
ピエロのみんなは、確実に体現している。
彼らの存在であったり、人間性であったりは、彼らのことばとなんら矛盾するものがない。
だからであろう。彼らのことばすっと聞いている人の体に入ってくる気がする。
ああ、書くと整理される。
もやもやとしたものが、なんとなく、クリアーになってくる。
私は、あまり人を嫌いにならない。そして、根拠があって批判するのとは違う、人の悪口は嫌いだ。
どの人も、それぞれ面白いし、すてきだと思うからだ。
「あの人は嫌だ」とか「うざい」とか、冗談じゃない感じで言ったり、そんなにはっきりではなくても、人のことを馬鹿にしたり、明らかに奇異な目で見たり、という人を見ると、何故そんなに簡単に人のことを侮蔑したりできるのだろう、と思い、悲しくなったりする。
好きなものを好き、楽しいものを楽しい、美しいものを美しい、悲しいことを悲しい、苦しいことを苦しいって言って生きていれば、いいじゃん。何で他人のことがそんなに気になるの、と思うのだ。
私はそういうことが目についてしまう。
でも、そういう「みんな違ってみんないい」みたいなことを言うのは、嘘つきで、自分の意見がなくて、八方美人だと思う人が多いのだろうな、と思う。
だけど、私は本気でそう思う。というか、そういう風にしか思えない。
ああ、何だかまたそれてきた…
桜がきれいに咲いているのを見るその瞬間は、無心になれる気がして、心がふっと楽になる。
今日のブログは、自分なりに、少しだけ牙をむいてみたつもりだ。
2009年3月31日火曜日
薄弱
手段を持たない私は、
弱い私は、
壊れてしまいそうだ。
こうして拙いことばにするくらいしか、できない。
しかも、何のメタファーでもない、ストレートなことば。
そうすることくらいしか、私は知らない。
ひとの前では、こんなこと出さない。
出さないんじゃない、出せないんだ。
本当はものすごくわかってもらいたいと思っているくせに、
あまりにも遠くばかり見ている自分が恥ずかしくて、いつも自分のことは曖昧に濁す。
毎日が綱渡り。
ときどき、かっこ悪く生きるくらいなら、誰にもやさしくなれないなら、
何もできることがなくてただ日々の中で沈黙することを選ぶくらいなら、
いっそ死んでしまった方がいいのではと思う。
生きるというのは、そういう危うさと隣り合わせなんだと思う。
浮いたり沈んだり。
これは、20代という途上の途上だから?
色々なひとや本に会うたびに軸を揺さぶられ、
私はまたも混迷の中へ。
人生は鍛練だ。
弱い私は、
壊れてしまいそうだ。
こうして拙いことばにするくらいしか、できない。
しかも、何のメタファーでもない、ストレートなことば。
そうすることくらいしか、私は知らない。
ひとの前では、こんなこと出さない。
出さないんじゃない、出せないんだ。
本当はものすごくわかってもらいたいと思っているくせに、
あまりにも遠くばかり見ている自分が恥ずかしくて、いつも自分のことは曖昧に濁す。
毎日が綱渡り。
ときどき、かっこ悪く生きるくらいなら、誰にもやさしくなれないなら、
何もできることがなくてただ日々の中で沈黙することを選ぶくらいなら、
いっそ死んでしまった方がいいのではと思う。
生きるというのは、そういう危うさと隣り合わせなんだと思う。
浮いたり沈んだり。
これは、20代という途上の途上だから?
色々なひとや本に会うたびに軸を揺さぶられ、
私はまたも混迷の中へ。
人生は鍛練だ。
2009年3月30日月曜日
来い!!そして行く!!
ベルセバを聞きながらの、年度末自分の部屋掃除を中断して書いてますー笑
今の気分として、何でも来い!!と、思っている。て、よくわからないけれど笑
私にとって、大学院の2年間は勝負だと思っている。
一体自分は、どこまで何ができるのだろう。
泥まみれになっても失敗しても、自分の方向見失って困惑しても、食らいつく気持ちで、どこまでも突っ走りたい。
何でも来い!!でも、その前にこっちから行ってやるから!!!!(気持ち的に!!)
楽しいこと、美しいこと、とにかく感動すること、生きてるって気持ち、すてきな出会い、待ってろよ!!!!!笑
死に物狂いでつかみに行きます!!
あー、生きてる間にどんだけの驚きに出会うことができるのだろう。。
ちゃんと見逃さないでいられるだろうか。
地球に生まれてよかったって言って死にたい!笑
地球に恩返ししたい!笑
よしー、掃除再開しよっ!笑
今の気分として、何でも来い!!と、思っている。て、よくわからないけれど笑
私にとって、大学院の2年間は勝負だと思っている。
一体自分は、どこまで何ができるのだろう。
泥まみれになっても失敗しても、自分の方向見失って困惑しても、食らいつく気持ちで、どこまでも突っ走りたい。
何でも来い!!でも、その前にこっちから行ってやるから!!!!(気持ち的に!!)
楽しいこと、美しいこと、とにかく感動すること、生きてるって気持ち、すてきな出会い、待ってろよ!!!!!笑
死に物狂いでつかみに行きます!!
あー、生きてる間にどんだけの驚きに出会うことができるのだろう。。
ちゃんと見逃さないでいられるだろうか。
地球に生まれてよかったって言って死にたい!笑
地球に恩返ししたい!笑
よしー、掃除再開しよっ!笑
2009年3月29日日曜日
表現すること
私はこういう抽象的なテーマが多いな、と思う。
最近、思うのが、表現することは、誰かの特権的なものであってはいけない、ということだ。
表現したい欲求って、人間の本質的なものだと思うから。
音楽だったり、絵だったり、踊りだったり。
もっともっと、市井のひとびとの身近なところに、そういうものがあればいいのになあ。
ラオスに行ったとき、ご飯の後にどこからともなく音楽が聞こえてきて、現地のひとはよく踊っていた気がする。
そして、誘われたら輪に入って一緒に踊るという習慣。恥ずかしがってはいられなかった笑。
現地のひとたちは、自然に楽しんでいた。
まあ、ホテルの庭かなんかでのライブの爆音が夜中までずっと鳴ってたのにはさすがにちょっとラオスのひとの感覚を疑い、うろたえたけれど。笑
歌ったり踊ったり、そういうことが、お金を払って遊ぶクラブとかカラオケとかじゃなくて、もっと身近にあったら、生きる喜びが、少し増えるような気がする。
最近、思うのが、表現することは、誰かの特権的なものであってはいけない、ということだ。
表現したい欲求って、人間の本質的なものだと思うから。
音楽だったり、絵だったり、踊りだったり。
もっともっと、市井のひとびとの身近なところに、そういうものがあればいいのになあ。
ラオスに行ったとき、ご飯の後にどこからともなく音楽が聞こえてきて、現地のひとはよく踊っていた気がする。
そして、誘われたら輪に入って一緒に踊るという習慣。恥ずかしがってはいられなかった笑。
現地のひとたちは、自然に楽しんでいた。
まあ、ホテルの庭かなんかでのライブの爆音が夜中までずっと鳴ってたのにはさすがにちょっとラオスのひとの感覚を疑い、うろたえたけれど。笑
歌ったり踊ったり、そういうことが、お金を払って遊ぶクラブとかカラオケとかじゃなくて、もっと身近にあったら、生きる喜びが、少し増えるような気がする。
2009年3月23日月曜日
つよくなりたい
自分が生きたいように生きるためには、正直に生きるためには、
批判や、自分にとって痛いことに堪える強さがないとだめだとよく思う。
傷つく準備ができてないとだめだと思う。
そしてまた、
ひとを傷つけないで生きるためにも、
自分が強くなるしかないと思う。
それから、
傷つけるつもりのないことばや行為で誰かが傷ついてしまったとしても、
それで自分が攻められたとしても、
それでも相手を思いやり、
這い上がって踏ん張って
生きていく覚悟がないといけない、と思う。
傷ついても、傷つけない。
そういう風に心がけて、
一瞬一瞬生きていきたい。
そういう風に生きれるように、
がんばりたい。
すごく難しいけれど、
でも
「腹がたったら自分にあたれ、悔しかったら自分を磨け。」だ。
批判や、自分にとって痛いことに堪える強さがないとだめだとよく思う。
傷つく準備ができてないとだめだと思う。
そしてまた、
ひとを傷つけないで生きるためにも、
自分が強くなるしかないと思う。
それから、
傷つけるつもりのないことばや行為で誰かが傷ついてしまったとしても、
それで自分が攻められたとしても、
それでも相手を思いやり、
這い上がって踏ん張って
生きていく覚悟がないといけない、と思う。
傷ついても、傷つけない。
そういう風に心がけて、
一瞬一瞬生きていきたい。
そういう風に生きれるように、
がんばりたい。
すごく難しいけれど、
でも
「腹がたったら自分にあたれ、悔しかったら自分を磨け。」だ。
2009年3月21日土曜日
良い刺激と、埋没感
今日、昨年10月に行った絵画展でフライヤーやポスター、美術制作全般にわたって協力していただいたピエロの筆の三人でルームシェアしている新居へお邪魔してきた。
近くにいい感じの商店街があって、お家自体もちょっと年代がかっていてかわいいし、とても素敵だった。
部屋の中や、置いてある小物たちなども、飾りすぎず、すごく「らしい」感じがしてさすがだなあ、と思った。
なんというか、いつもピエロの筆のみんなから発せられるエネルギーに不思議なパワーをもらうのだけれど、またしても、やられたなあ、と思った。
自立し、正直に、自分たちの好きなものを追及して生きている感じ。
かっこいい。
その道でやっていくという決意と、楽しく生きてやろうっていう本気さが感じられる。
正直、すごい、刺激をもらった。
それに比べて、自分、かっこ悪いぜ、と思った。
何で、ひとに頼ってばっかで、迷ってばっかで、
人生の限られた時間を、過ごしてしまっているんだろう。
もっともっと、面白く、かっこよく、好きなものを好きだと言い張って生きなきゃだめだ。と、思った。
ある種の、ちょっと、ジェラシーかもしれない。笑
私はもしかして、埋没してないか。
世間体や、ひとの目、親の目という名で隠した、腰ぬけの自分に。
今すぐに模索しよう。そしてずっとあきらめないで求め続けよう。
何も包み隠さず、私が私として、存在できる生き方を。
近くにいい感じの商店街があって、お家自体もちょっと年代がかっていてかわいいし、とても素敵だった。
部屋の中や、置いてある小物たちなども、飾りすぎず、すごく「らしい」感じがしてさすがだなあ、と思った。
なんというか、いつもピエロの筆のみんなから発せられるエネルギーに不思議なパワーをもらうのだけれど、またしても、やられたなあ、と思った。
自立し、正直に、自分たちの好きなものを追及して生きている感じ。
かっこいい。
その道でやっていくという決意と、楽しく生きてやろうっていう本気さが感じられる。
正直、すごい、刺激をもらった。
それに比べて、自分、かっこ悪いぜ、と思った。
何で、ひとに頼ってばっかで、迷ってばっかで、
人生の限られた時間を、過ごしてしまっているんだろう。
もっともっと、面白く、かっこよく、好きなものを好きだと言い張って生きなきゃだめだ。と、思った。
ある種の、ちょっと、ジェラシーかもしれない。笑
私はもしかして、埋没してないか。
世間体や、ひとの目、親の目という名で隠した、腰ぬけの自分に。
今すぐに模索しよう。そしてずっとあきらめないで求め続けよう。
何も包み隠さず、私が私として、存在できる生き方を。
2009年3月20日金曜日
drive for someone
今、運転免許取得すべく教習所通いの毎日です。
車というものの、スピードと威力に驚かされるとともに、恐ろしさが消えません。
とんでもないものに手を出してしまったのかもしれない、と思う。
必要以上に乗らないようにしよう、と思ってしまう。
地球のためにもその方がよいに決まってる。排気出すわ、音がぶんぶんするわ。
だいたい都心は電車で事足りるわよ。(ぶつぶつ)
道路に並ぶ車の光景は、私の目には美しいものとして映らない。
運転しているとき、とくに横断歩道を通過するときとか、
一瞬の気の緩みも許されない、緊張感。
これを、忘れないようにしなければ。ほんとに。
前から思っていたけれど、
いつから街では車の方が偉くなってしまったのだろう。
どう考えても、車の道が広いし、
私の家の近くには、大きなマンションが建って、以前車が通らなかった歩行者の道にも車が通るようになった。
肩身が狭いのは人の方。
いつから、なんだろうな。
運転免許、とったら、
誰かのために運転手をしてみたいなあ。
自分で乗るときは、
島で、
のろのろのろのろ~、と。(が、ちっさい夢。)
※映画『めがね』の影響。
車というものの、スピードと威力に驚かされるとともに、恐ろしさが消えません。
とんでもないものに手を出してしまったのかもしれない、と思う。
必要以上に乗らないようにしよう、と思ってしまう。
地球のためにもその方がよいに決まってる。排気出すわ、音がぶんぶんするわ。
だいたい都心は電車で事足りるわよ。(ぶつぶつ)
道路に並ぶ車の光景は、私の目には美しいものとして映らない。
運転しているとき、とくに横断歩道を通過するときとか、
一瞬の気の緩みも許されない、緊張感。
これを、忘れないようにしなければ。ほんとに。
前から思っていたけれど、
いつから街では車の方が偉くなってしまったのだろう。
どう考えても、車の道が広いし、
私の家の近くには、大きなマンションが建って、以前車が通らなかった歩行者の道にも車が通るようになった。
肩身が狭いのは人の方。
いつから、なんだろうな。
運転免許、とったら、
誰かのために運転手をしてみたいなあ。
自分で乗るときは、
島で、
のろのろのろのろ~、と。(が、ちっさい夢。)
※映画『めがね』の影響。
2009年3月17日火曜日
2009年3月16日月曜日
最近覚えたこと
最近覚えたこと。
うらやましがらない、ということ。
(まだ完ぺきに覚えたわけではないけれど。)
これは、すごい。
これは、長年の課題だったと思う。
ひとは誰しも多少なりともそういうものを抱えているのものかもしれないけれど、私は自分の中のコンプレックスを強く意識してきた気がする。
上っ面だけの見栄と、自信のなさで、自分で自分の首を絞めてきた気がする。
最近は、自分のだめさ、弱さも、少しずつわかってきたのかな。
ひとをすぐにうらやましがらないで、一呼吸置く。
そうして生きてみると、なんか、ちょっと楽しいことが増える。
自分の近くにも、たくさんの発見が満ち溢れてて、面白いことがいっぱいあるってことに
気づくようになる。
ものごとに、大小はない。決められた優劣もない。
それは全部、自分が決めること。
なんてすばらしいんだろう。
日々出会うおもしろいこと、うれしいこと、ふしぎなこと、わくわくすること。
そういう、自分が見つけた色んなことを、
今日こんなすごいことあったんだよ!って、誰かとシェアできたら、
それって最高だと思うんですよ。
うらやましがらない、ということ。
(まだ完ぺきに覚えたわけではないけれど。)
これは、すごい。
これは、長年の課題だったと思う。
ひとは誰しも多少なりともそういうものを抱えているのものかもしれないけれど、私は自分の中のコンプレックスを強く意識してきた気がする。
上っ面だけの見栄と、自信のなさで、自分で自分の首を絞めてきた気がする。
最近は、自分のだめさ、弱さも、少しずつわかってきたのかな。
ひとをすぐにうらやましがらないで、一呼吸置く。
そうして生きてみると、なんか、ちょっと楽しいことが増える。
自分の近くにも、たくさんの発見が満ち溢れてて、面白いことがいっぱいあるってことに
気づくようになる。
ものごとに、大小はない。決められた優劣もない。
それは全部、自分が決めること。
なんてすばらしいんだろう。
日々出会うおもしろいこと、うれしいこと、ふしぎなこと、わくわくすること。
そういう、自分が見つけた色んなことを、
今日こんなすごいことあったんだよ!って、誰かとシェアできたら、
それって最高だと思うんですよ。
2009年3月15日日曜日
タイトルなんてわかんない
ときどき、人間ってものが、どうしようもなく愛おしく感じる。
またこれどこ行くかわかんないなー…笑
今日は母校の高校に行った。
都立高校だったのだけれど、中等一貫の区立になるのだ。
今日(14日)で、母校は閉校となる、ということに事実上なっている。
久しぶりに友達に会った。
久しぶりに高1のときの担任の先生に会った。
先生は、3年で担任をしていたクラスの、私たちと同じ学年の生徒が亡くなったことについて話してくれた。
(同じ学年の誰かが亡くなったということは、風の噂で聞いていた。)
あんまりよく、わからない。
同じ学年の子が亡くなったって、何なのだろう。
うまく焦点が合わない、感じ。
先生は卒業アルバムを見ながら話してくれた。(もちろん、私も持っているそれ。)
私はおそらくその子と話をしたことがなかったと思う。
写真を見ても、その子がもうこの世にいないなんてことは、よく、わからない。
私にはまだたぶん、死というものがよくわからない。
亡くなったということばは、私の口から、どこか知らない宙へ行ってしまう。
今日は長くこの母校に勤務されていた先生が、つい最近亡くなったという話も、私たちはその前にしていたのだった。
授業を受けたこともあった、その先生。
話をしていて、先生の顔が浮かんだ。
先生が亡くなられたときも、お通夜や告別式などの、メールが回ってきた。
なのに私は、やっぱりよくわからない、と今日も思った。
冷静に。
冷たいのかな、と自分を見ている自分。
ほんとに、亡くなったひとは、亡くなったのだろうかという気分になってくる。
先生は、その亡くなった子の話の後、今日私たちと元気な顔で会えてよかった、これから働くのに体に気をつけてというようなことを、私たちに言ってくれた。
握手した先生の手は温かかった。
先生て、どんな気分だろうな。
真っ正面から、否応なく、ひと対ひと。
可能性と悩みと、疑いようのないエネルギーのかたまりたちと毎日対峙していく。
教えるより教わることの方が多いような気がする。
* * *
今日、久しぶりに会った友達が、話してくれた自分の家庭のこと。
この春両親が離婚して、母親と二人暮らしになること。
そして離婚することは、彼女が中学のときに告げられ、彼女が大きくなるまでは離婚しないと、母親が涙ながらに彼女に語ったということ。
彼女が一人っ子で、お母さんと仲が良いということは、知っていた。
彼女もよくお母さんの話をしていたから。
明るくて頑張り屋で几帳面。
会話のない両親と過ごした時間、冷えた会話が、彼女の眠る部屋で聞こえてしまったとき、
どんな気持ちだっただろう。
愛していないひととともに暮らすというのは、どんなことなんだろう。
今はこうして言えるけれど、前はひとに言えなかったと彼女は言った。
そんなことを抱えていたなんて、全く知らなかった。
これからまた新しい環境で、
明るくて楽しい、本当にしっかり者の彼女が、
お母さんと一緒に、いろんな喜びを、共有していってほしいと、思う。
どうして、降りかかる現実は、ファンタジーの世界よりずっと困難なのか。
どうして、ひとは強くなれるのか。
どうして、ひとはこんなに愛おしいのか。
生きていること、好きであること、大切だと思うこと。
そういうことに、何故かすごく、
「ありがとう」と言いたい。
またこれどこ行くかわかんないなー…笑
今日は母校の高校に行った。
都立高校だったのだけれど、中等一貫の区立になるのだ。
今日(14日)で、母校は閉校となる、ということに事実上なっている。
久しぶりに友達に会った。
久しぶりに高1のときの担任の先生に会った。
先生は、3年で担任をしていたクラスの、私たちと同じ学年の生徒が亡くなったことについて話してくれた。
(同じ学年の誰かが亡くなったということは、風の噂で聞いていた。)
あんまりよく、わからない。
同じ学年の子が亡くなったって、何なのだろう。
うまく焦点が合わない、感じ。
先生は卒業アルバムを見ながら話してくれた。(もちろん、私も持っているそれ。)
私はおそらくその子と話をしたことがなかったと思う。
写真を見ても、その子がもうこの世にいないなんてことは、よく、わからない。
私にはまだたぶん、死というものがよくわからない。
亡くなったということばは、私の口から、どこか知らない宙へ行ってしまう。
今日は長くこの母校に勤務されていた先生が、つい最近亡くなったという話も、私たちはその前にしていたのだった。
授業を受けたこともあった、その先生。
話をしていて、先生の顔が浮かんだ。
先生が亡くなられたときも、お通夜や告別式などの、メールが回ってきた。
なのに私は、やっぱりよくわからない、と今日も思った。
冷静に。
冷たいのかな、と自分を見ている自分。
ほんとに、亡くなったひとは、亡くなったのだろうかという気分になってくる。
先生は、その亡くなった子の話の後、今日私たちと元気な顔で会えてよかった、これから働くのに体に気をつけてというようなことを、私たちに言ってくれた。
握手した先生の手は温かかった。
先生て、どんな気分だろうな。
真っ正面から、否応なく、ひと対ひと。
可能性と悩みと、疑いようのないエネルギーのかたまりたちと毎日対峙していく。
教えるより教わることの方が多いような気がする。
* * *
今日、久しぶりに会った友達が、話してくれた自分の家庭のこと。
この春両親が離婚して、母親と二人暮らしになること。
そして離婚することは、彼女が中学のときに告げられ、彼女が大きくなるまでは離婚しないと、母親が涙ながらに彼女に語ったということ。
彼女が一人っ子で、お母さんと仲が良いということは、知っていた。
彼女もよくお母さんの話をしていたから。
明るくて頑張り屋で几帳面。
会話のない両親と過ごした時間、冷えた会話が、彼女の眠る部屋で聞こえてしまったとき、
どんな気持ちだっただろう。
愛していないひととともに暮らすというのは、どんなことなんだろう。
今はこうして言えるけれど、前はひとに言えなかったと彼女は言った。
そんなことを抱えていたなんて、全く知らなかった。
これからまた新しい環境で、
明るくて楽しい、本当にしっかり者の彼女が、
お母さんと一緒に、いろんな喜びを、共有していってほしいと、思う。
どうして、降りかかる現実は、ファンタジーの世界よりずっと困難なのか。
どうして、ひとは強くなれるのか。
どうして、ひとはこんなに愛おしいのか。
生きていること、好きであること、大切だと思うこと。
そういうことに、何故かすごく、
「ありがとう」と言いたい。
2009年3月3日火曜日
社会とのかかわり
昨日、今日と、毎日新聞の夕刊に村上春樹がイスラエル賞の授賞式で行った演説の全文が載っていた。
それを読んで私はとても感動してしまった。
本当に、そのとおりだな、と思った。
私たちは、常に「体制=システム」とたたかっていかなければならない。
社会の中で、ひとりの人間として生きる私たちは、自分でもほとんど意識することなく、気づかぬうちに、体制=システムとなってしまうこともありうる。
私は、これからどんな風に、社会とかかわっていけるのだろう。
村上春樹は、沈黙ではなく、伝えることを選んだのだ。
私も、伝えることを選びたい。
どんなに小さい声でも、声を発しよう。
体制=システムではなく、わたしとして、生きたい。
そんなことを考えた。
それを読んで私はとても感動してしまった。
本当に、そのとおりだな、と思った。
私たちは、常に「体制=システム」とたたかっていかなければならない。
社会の中で、ひとりの人間として生きる私たちは、自分でもほとんど意識することなく、気づかぬうちに、体制=システムとなってしまうこともありうる。
私は、これからどんな風に、社会とかかわっていけるのだろう。
村上春樹は、沈黙ではなく、伝えることを選んだのだ。
私も、伝えることを選びたい。
どんなに小さい声でも、声を発しよう。
体制=システムではなく、わたしとして、生きたい。
そんなことを考えた。
2009年3月2日月曜日
正直と生き生き
毎回毎回、記事を書き始めても、話題がどんどんずれていってしまうので、全くどこにいくかわからない。
あたしはどこまで正直に生きれるんだろう。
色んなものに影響されてぐるぐるぐるぐるし、意見が変わってしまうのも、正直と言えば正直だ。(自分の中の根っこの根っこは変わっていないのかもしれないが、実際、本当に色々なひとやものに影響を受けて、ころころころころしている。)
その一瞬一瞬を、自然に生きる、ということだろうか。
「比較」ではなく、自分に問うということ。
正直への道(ていう言い方も何かおかしいけれど)は、それしかない。
自分の目で見て、聞いて、自分の感性に問うしかない。
でも、正直に生きてない人なんて、よく考えたら、いないかもしれない。
こころの中で思ったことを、その場で言えなくて、反対のことを言ってしまったとしても、それはそのひとの素直な反応だと考えれば、正直だ。
ただ、それが自分にとって、納得できるかどうか、ということだろう。それが結局とても大切なんだと思う。
先日、TVに建築家の安藤忠雄さんが出ていて、事務所の様子が取材されていた。
安藤忠雄さんは、妥協を許さない非常に厳格なひとといった感じで、社員は門下生のように建築についてときには怒号を浴びつつ学んでいた。愛のむちといった感じで、すごい情熱が伝わってきた。
私は、「ああ、やはり厳しい世界に生きているひとはすごい。ものごとを大成させるには、あのような厳しさが必要なのだ。」と思った。自分に不足している点や失敗をあんなにずばずばと言われても、必死にそれを克服すべく勉強する社員(門下生)の姿は本当に感心した。
私は今までそんなにずばずばと人にダメだしされたことはあっただろうか。
否。
そう思うと、私は自分の生きている間直面すべき何かを避けて生きている気がして、自分の人生が非常に薄っぺらく空虚なものに感じた。
そういうものに、自分がこのいのちを惜しみなく注ぎ込めるものに、「出会っていない」感が湧き起こった。
とは言え、ネガティブに悩んでいることは有効な時間の使い方ではないということにここ最近ようやく気付き始めた私は、そういう気持ちをすっ飛ばし、昨日は地元の図書館に行って楽しいエッセイとかを読みたい気分になっていた。そこで前から好きだったさくらももこのエッセイの割と最近出たものを借りた。
期待どおり面白かった。ほんと、絶妙な笑いのツボをわかってらっしゃる。
当たり前だけれど、安藤忠雄さんの醸し出している空気とは全然違う。失礼かもしれないが、庶民の生活の中にあって、多くのひとが共感するであろう「ゆるい空気」「ゆるい笑い」を、ちびまるこちゃんもコジコジもエッセイも共有しているなぁと思う。私はいつも読みながら笑わずにいられない。
飾らないから、それがいいんだろうなぁ。
そういえばよく小さいころまる子と私は似ているなぁと思っていたものだ。寝坊すけなとことか、妄想癖とか、のん気でだらっとしてるとことか。笑
安藤忠雄さんの持つストイックな空気とは違うけれど、さくらももこさんはさくらももこさんで、自然で、正直で、いいなぁと思ったのだ。そしてまたしても自分を重ねて「正直にだらっとして、自分の好きなことを追及して生きるのも、もちろんみんながそうなれるかは別だけれど、いいなぁ」と、これまたあっさり影響された。
安藤忠雄さんとさくらももこさんは年齢も職業も全然違うけれど、体当たりで素っ裸な感じは、似ているかもしれない、と思う。
何で安藤忠雄さんとさくらももこさんを並列しているのか謎ですが、きっとそれぞれ生き生きとしているからだと思います。
「生き生き」のために、模索しまくるのが、人生かなあ。
あたしはどこまで正直に生きれるんだろう。
色んなものに影響されてぐるぐるぐるぐるし、意見が変わってしまうのも、正直と言えば正直だ。(自分の中の根っこの根っこは変わっていないのかもしれないが、実際、本当に色々なひとやものに影響を受けて、ころころころころしている。)
その一瞬一瞬を、自然に生きる、ということだろうか。
「比較」ではなく、自分に問うということ。
正直への道(ていう言い方も何かおかしいけれど)は、それしかない。
自分の目で見て、聞いて、自分の感性に問うしかない。
でも、正直に生きてない人なんて、よく考えたら、いないかもしれない。
こころの中で思ったことを、その場で言えなくて、反対のことを言ってしまったとしても、それはそのひとの素直な反応だと考えれば、正直だ。
ただ、それが自分にとって、納得できるかどうか、ということだろう。それが結局とても大切なんだと思う。
先日、TVに建築家の安藤忠雄さんが出ていて、事務所の様子が取材されていた。
安藤忠雄さんは、妥協を許さない非常に厳格なひとといった感じで、社員は門下生のように建築についてときには怒号を浴びつつ学んでいた。愛のむちといった感じで、すごい情熱が伝わってきた。
私は、「ああ、やはり厳しい世界に生きているひとはすごい。ものごとを大成させるには、あのような厳しさが必要なのだ。」と思った。自分に不足している点や失敗をあんなにずばずばと言われても、必死にそれを克服すべく勉強する社員(門下生)の姿は本当に感心した。
私は今までそんなにずばずばと人にダメだしされたことはあっただろうか。
否。
そう思うと、私は自分の生きている間直面すべき何かを避けて生きている気がして、自分の人生が非常に薄っぺらく空虚なものに感じた。
そういうものに、自分がこのいのちを惜しみなく注ぎ込めるものに、「出会っていない」感が湧き起こった。
とは言え、ネガティブに悩んでいることは有効な時間の使い方ではないということにここ最近ようやく気付き始めた私は、そういう気持ちをすっ飛ばし、昨日は地元の図書館に行って楽しいエッセイとかを読みたい気分になっていた。そこで前から好きだったさくらももこのエッセイの割と最近出たものを借りた。
期待どおり面白かった。ほんと、絶妙な笑いのツボをわかってらっしゃる。
当たり前だけれど、安藤忠雄さんの醸し出している空気とは全然違う。失礼かもしれないが、庶民の生活の中にあって、多くのひとが共感するであろう「ゆるい空気」「ゆるい笑い」を、ちびまるこちゃんもコジコジもエッセイも共有しているなぁと思う。私はいつも読みながら笑わずにいられない。
飾らないから、それがいいんだろうなぁ。
そういえばよく小さいころまる子と私は似ているなぁと思っていたものだ。寝坊すけなとことか、妄想癖とか、のん気でだらっとしてるとことか。笑
安藤忠雄さんの持つストイックな空気とは違うけれど、さくらももこさんはさくらももこさんで、自然で、正直で、いいなぁと思ったのだ。そしてまたしても自分を重ねて「正直にだらっとして、自分の好きなことを追及して生きるのも、もちろんみんながそうなれるかは別だけれど、いいなぁ」と、これまたあっさり影響された。
安藤忠雄さんとさくらももこさんは年齢も職業も全然違うけれど、体当たりで素っ裸な感じは、似ているかもしれない、と思う。
何で安藤忠雄さんとさくらももこさんを並列しているのか謎ですが、きっとそれぞれ生き生きとしているからだと思います。
「生き生き」のために、模索しまくるのが、人生かなあ。
2009年2月24日火曜日
ことばは旬がいちばん
「ああ、この感じを、すごく言いたい」
「あ~、今!ひとに伝えたい」
そんな風に思った瞬間に書いたり話したりするのが、一番いいんだろうなぁ、と思う。
そういう瞬間と、言ったり書いたりできるタイミングが、ばちっと合うことって、稀な気がする。
合ったとき、私は嬉しくなる。
逆に、自分が発する側じゃなくて、受け取る側であっても、そう。
音楽や文章や情景が、「あー、今の自分に、ほんとにこれはぴったりくる!」っていうあの瞬間。
感動って、そういうものでしょうか。
先日、大学院の入試を受けた。
面接で、自分が考えていることを話さなければいけないのだけれど、自分の考えていることを、限られた時間のなかでひとに伝えるのって、本当に難しいなあと、改めて実感した。
妙にかしこまって真面目になってしまって、「お前、違うだろ、もっと自分が本当にこれから楽しみたいと思っていることを楽しく熱く表現すればいいじゃんか!」って、自分に突っ込みを入れた。
ね、ほんとにもう。
「あ~、今!ひとに伝えたい」
そんな風に思った瞬間に書いたり話したりするのが、一番いいんだろうなぁ、と思う。
そういう瞬間と、言ったり書いたりできるタイミングが、ばちっと合うことって、稀な気がする。
合ったとき、私は嬉しくなる。
逆に、自分が発する側じゃなくて、受け取る側であっても、そう。
音楽や文章や情景が、「あー、今の自分に、ほんとにこれはぴったりくる!」っていうあの瞬間。
感動って、そういうものでしょうか。
先日、大学院の入試を受けた。
面接で、自分が考えていることを話さなければいけないのだけれど、自分の考えていることを、限られた時間のなかでひとに伝えるのって、本当に難しいなあと、改めて実感した。
妙にかしこまって真面目になってしまって、「お前、違うだろ、もっと自分が本当にこれから楽しみたいと思っていることを楽しく熱く表現すればいいじゃんか!」って、自分に突っ込みを入れた。
ね、ほんとにもう。
2009年2月19日木曜日
怒り
理性的に、現実的に、物事を考えられる力をつけたい。
怒りという感情は、ひとに何をもたらしてくれるのだろう。
兄は今日も仕事で夜中に帰宅した。
以前過労で体を壊した兄。
この二日間親が出かけているため私が夕飯を作っていたのだが、いつも母が兄を心配する理由がわかる気がした。
また体を壊すんじゃないか、とか。
再三、仕事の不平不満を聞かされるたび、私は正直嫌気がさす。
話を聞いて少しは元気になってくれればよいものの、できる限りこうしたらとか、思ったことを言ったり、相槌打ったりとかしても、全く納得しないどころか、逆に不満が増すかのように、ますますわけのわからんネガティブな理屈を並べられてどうしようもない。聞いている方が辛いし、辟易する。
もし彼が一人暮らしだったら、健康なんて保っていけないし、家事なんかやる暇ないだろうから、ろくな生活を送ることができないんじゃないか。
人間を正常にではなく、疲弊させる仕事。
何のための仕事なんだろう。
生きるための金を稼ぐ仕事で、心身を壊して、何になるんだろう。
私の兄は、氷山の一角に過ぎないと思う。
実際、学校の先生とかもそうだけれど、うつで休職とかする人が、今日本にはたくさんいる。
日本の社会はどこかで道を間違えたんだ、という思いが浮かばざるを得ない。
だけどマスメディアはやっぱりGDPの数値ばかりに一喜一憂してる。
どうにかしたい。
人と人、人と自然のつながりを感じられる社会にしたい。
怒りという感情は、ひとに何をもたらしてくれるのだろう。
兄は今日も仕事で夜中に帰宅した。
以前過労で体を壊した兄。
この二日間親が出かけているため私が夕飯を作っていたのだが、いつも母が兄を心配する理由がわかる気がした。
また体を壊すんじゃないか、とか。
再三、仕事の不平不満を聞かされるたび、私は正直嫌気がさす。
話を聞いて少しは元気になってくれればよいものの、できる限りこうしたらとか、思ったことを言ったり、相槌打ったりとかしても、全く納得しないどころか、逆に不満が増すかのように、ますますわけのわからんネガティブな理屈を並べられてどうしようもない。聞いている方が辛いし、辟易する。
もし彼が一人暮らしだったら、健康なんて保っていけないし、家事なんかやる暇ないだろうから、ろくな生活を送ることができないんじゃないか。
人間を正常にではなく、疲弊させる仕事。
何のための仕事なんだろう。
生きるための金を稼ぐ仕事で、心身を壊して、何になるんだろう。
私の兄は、氷山の一角に過ぎないと思う。
実際、学校の先生とかもそうだけれど、うつで休職とかする人が、今日本にはたくさんいる。
日本の社会はどこかで道を間違えたんだ、という思いが浮かばざるを得ない。
だけどマスメディアはやっぱりGDPの数値ばかりに一喜一憂してる。
どうにかしたい。
人と人、人と自然のつながりを感じられる社会にしたい。
2009年2月17日火曜日
2009年2月11日水曜日
身体と精神
先日、高校の友達が大学の有志で立ち上げた劇団のミュージカル公演を観にいった。
大学2年のときに一緒にミュージカル「レ・ミゼラブル」を再演した友達。(レミゼは高3の文化祭で公演した作品。)
高校や、大学2年のときの感覚を思い出した。
なんか、言い知れぬパワーをもらった。
ダンスや歌や演技をしているキャストみんなが、ほんときらきらしていた。
自分と照らし合わせて、あたしは頭でっかちになりすぎてしまったのだ、と思った笑。
それから、高校時代の、ダンス部に所属していたときのことを思い出したりした。
いつもいつも、ダンスが楽しかったというわけではない。高校までダンスの経験がなかったし、何しろ、自分に全然自信がなかった。ダンスというものは、(演技とかでもそうだと思うけれど)自分に自信がないと全然良いものにならない。というか、ばれる。「楽しんでない」「自信を持ってない」ということが、見ている人に伝わってしまう。「舞台」という場所は、嘘がつけない。見ているひとに、自分の全てをさらけ出すしかない。だからこそ、最高の自信を持ってのぞむために、たくさんたくさん練習する。
曲のテンポが速かったりすると、「こんな速いの踊れないよ…」と心の中で思って、なかなかできない自分を責めたりしてた。
でも、何度も何度もやって、体に覚えこませる。自然と振りが出てくるようになるまで、ひたすらやる。
それで、振りが自然に出てくるようになって、一緒のチームメンバーと合わせられるようになったとき、曲に合わせて踊れるようになったときの、あの感じは、何とも言えなかった。気持ち良かったなあ。。
最近、体と精神と頭って、すごくつながっている、と思う。(精神と頭を分けるべきかはよくわからないけれど)
頭ばかり使って考えていると、私の場合は、どんどん落ち込む。笑
さまざまな物事の意味とか、根拠とか考えだすと果てしない。「意味付け」「根拠付け」のスパイラルの中に迷い込んで、出口を見失って、自分がコントロールできなくなってしまう。
そんなとき、無心になりたいと思う。
(座禅とか、瞑想ってのは、きっとそういう役割を持っているんだろうなぁ、とか思う。)
ストレッチをしたりしていると、だんだん頭が縮小されていく気がする。
ただ、ごちゃごちゃと考えることもなく、気持ちいいなぁ、と感じる。
歌ったりしているときも、そう。笑
身体と精神は、すごく密接な関係にあるのかもしれないなあ。
大学2年のときに一緒にミュージカル「レ・ミゼラブル」を再演した友達。(レミゼは高3の文化祭で公演した作品。)
高校や、大学2年のときの感覚を思い出した。
なんか、言い知れぬパワーをもらった。
ダンスや歌や演技をしているキャストみんなが、ほんときらきらしていた。
自分と照らし合わせて、あたしは頭でっかちになりすぎてしまったのだ、と思った笑。
それから、高校時代の、ダンス部に所属していたときのことを思い出したりした。
いつもいつも、ダンスが楽しかったというわけではない。高校までダンスの経験がなかったし、何しろ、自分に全然自信がなかった。ダンスというものは、(演技とかでもそうだと思うけれど)自分に自信がないと全然良いものにならない。というか、ばれる。「楽しんでない」「自信を持ってない」ということが、見ている人に伝わってしまう。「舞台」という場所は、嘘がつけない。見ているひとに、自分の全てをさらけ出すしかない。だからこそ、最高の自信を持ってのぞむために、たくさんたくさん練習する。
曲のテンポが速かったりすると、「こんな速いの踊れないよ…」と心の中で思って、なかなかできない自分を責めたりしてた。
でも、何度も何度もやって、体に覚えこませる。自然と振りが出てくるようになるまで、ひたすらやる。
それで、振りが自然に出てくるようになって、一緒のチームメンバーと合わせられるようになったとき、曲に合わせて踊れるようになったときの、あの感じは、何とも言えなかった。気持ち良かったなあ。。
最近、体と精神と頭って、すごくつながっている、と思う。(精神と頭を分けるべきかはよくわからないけれど)
頭ばかり使って考えていると、私の場合は、どんどん落ち込む。笑
さまざまな物事の意味とか、根拠とか考えだすと果てしない。「意味付け」「根拠付け」のスパイラルの中に迷い込んで、出口を見失って、自分がコントロールできなくなってしまう。
そんなとき、無心になりたいと思う。
(座禅とか、瞑想ってのは、きっとそういう役割を持っているんだろうなぁ、とか思う。)
ストレッチをしたりしていると、だんだん頭が縮小されていく気がする。
ただ、ごちゃごちゃと考えることもなく、気持ちいいなぁ、と感じる。
歌ったりしているときも、そう。笑
身体と精神は、すごく密接な関係にあるのかもしれないなあ。
2009年2月10日火曜日
教授くん
私は、教授くんを見ていると「このひと、禅を地で行く人じゃないか」としばしば思う。笑
正直。
裏表なし。
興味の範囲は、固定。
興味のないことは、目に入らない。
「そんなこと言ったっけ?」と、よく言う。
感情の起伏は、さざ波程度。
自分のペースが乱れない。
大概、早寝早起き。
基本的に楽天家。
お掃除好き。
基本的に、旅と本(漫画とお笑いも)。あと、写真。
黙っているときは、恐らく何も考えてない。
「何考えてんの?」「別に~。」「…。」
「何してた?」「何も~。」「…。」
そんな教授くんは、昨日22歳になった。
おめでとう。
教授くんは、このブログのアドレスを、知らない。笑
正直。
裏表なし。
興味の範囲は、固定。
興味のないことは、目に入らない。
「そんなこと言ったっけ?」と、よく言う。
感情の起伏は、さざ波程度。
自分のペースが乱れない。
大概、早寝早起き。
基本的に楽天家。
お掃除好き。
基本的に、旅と本(漫画とお笑いも)。あと、写真。
黙っているときは、恐らく何も考えてない。
「何考えてんの?」「別に~。」「…。」
「何してた?」「何も~。」「…。」
そんな教授くんは、昨日22歳になった。
おめでとう。
教授くんは、このブログのアドレスを、知らない。笑
2009年2月7日土曜日
2009年2月3日火曜日
あのとき…
ふーう。今日は本を七冊持って歩きまわって、疲れてしまった。。
都会って、疲れるなぁ…笑
さっきテレビで、カナダのバンクーバーのドキュメンタリーで、ひとになついたシャチの話がやっていた。
私は、9歳か10歳かそこらの年齢のときに、家族でカナダに旅行に行った。(私の父は若いとき色んな国を放浪してて、所帯を持ってからも休みがあれば海外に行くという人であった。)
そのときのことを思い出した。
カナダには、見たこともないどでかい自然が広がっていた。私が小さかったからなのか。でも、本当にスケールが大きかった。
日本だったら、一大観光地であろう、澄みきった青い湖には、人っ子ひとりいない静寂。
町から見える雪をかぶった山も、とても美しかった。
どうしても、忘れられない。
私の中に、カナダの山や湖の風景と、その空気が染みついて離れなくなってしまった。
あのとき、早くも私は、自分が生きる上でのターニングポイントを迎えたのだと思う。
帰りの飛行機で、帰りたくないあまり、密かに半べそをかいていた。
何が言いたいとか、そういうことではないけれど、あの自然を感じたことは、とにかく衝撃だった。
世の中に、あんなところがあるなんて、全く考えもしていなかった。
私がidealistになった原因は、あのときにある、と思う。
都会って、疲れるなぁ…笑
さっきテレビで、カナダのバンクーバーのドキュメンタリーで、ひとになついたシャチの話がやっていた。
私は、9歳か10歳かそこらの年齢のときに、家族でカナダに旅行に行った。(私の父は若いとき色んな国を放浪してて、所帯を持ってからも休みがあれば海外に行くという人であった。)
そのときのことを思い出した。
カナダには、見たこともないどでかい自然が広がっていた。私が小さかったからなのか。でも、本当にスケールが大きかった。
日本だったら、一大観光地であろう、澄みきった青い湖には、人っ子ひとりいない静寂。
町から見える雪をかぶった山も、とても美しかった。
どうしても、忘れられない。
私の中に、カナダの山や湖の風景と、その空気が染みついて離れなくなってしまった。
あのとき、早くも私は、自分が生きる上でのターニングポイントを迎えたのだと思う。
帰りの飛行機で、帰りたくないあまり、密かに半べそをかいていた。
何が言いたいとか、そういうことではないけれど、あの自然を感じたことは、とにかく衝撃だった。
世の中に、あんなところがあるなんて、全く考えもしていなかった。
私がidealistになった原因は、あのときにある、と思う。
2009年2月2日月曜日
不純な動機なのか
高校生のとき、自分が大学で学びたいことは何か考えていた。
そして漠然と出した答えは二つ、「芸術」か「国際協力」。
「芸術」は、実践するのではなく、詳しく学んでみたいと思っていた。絵や音楽を、鑑賞するのが好きだったからだ。
「国際協力」は、自分が毎日平々凡々とした生活を送っている一方で、戦争や貧困に苦しむ人びとがいるのは何故なのか、どうしてそのような状況があるのかということを、知りたかった。
私は二つを自分の中にある天秤にかけ、後者を選んだ。
国際政治を学べば、そういうことがわかるのかな…と考え、国際政治学を専攻した。
高校生のときは、本当に単純に、このようなことを考え、このような道を選んだのだ。
大学に入って、講義を受けたり、本を読んだり、イベントや講演会に出かけてみて、物事の善し悪しというのは、単純ではないのだということを、だんだん感じるようになった。
この世界の構造に対して、日本という国の、東京という大都市に生まれ育った私は、どうすることが正しいのか、何ができるのか。
東京生まれ東京育ちの私は、完全に、資本主義にどっぷり浸かり、生きているだけで、誰かから何かを奪っているのだと思った。
自分が生きるために必要なもの。資源や食糧。
学べば学ぶほど、考えれば考えるほど、本当にわからなくて、苦悩した。
自分の進路も、わからなくなった。志すべき方向が、わからなくなった。
そのうち、自分の生きる意味を問うようになった。毎日毎日、考え続けた。
今もその明確な答えはわからない。
でも、なんとなく、わかったこともある。
私は、子どもと自然とアート、そして、異文化が好きなのだ、ということ。
好きだから、感じたい、好きだから、まもりたい。
人助けとか、社会貢献とかがしたいというのではない。
変な言い方をすれば、むしろ自分を救いたいのだ、と思う。
それらと関わることによって、自分の欲望を満たしたいというだけのこと。
よく、発展途上国と呼ばれる国に行って、子どもたちと交流して、子どもたちは貧しいけれど笑顔が可愛くて、元気をもらった、とかいう感想を聞くけれど、正にそれ、だと思う。
何が人の役に立つ、何が人のためになる、という観点が、一番大切なのだから、それをわきまえなければならない、と思っていた。
国際協力に携わるための、論理的な根拠が必要だと思っていた。
でも、それを考え出しても、わからなくて、自分にできることの答えが見つからなかった。
私は、ただ単純に、自分の好きなものと関わっていたいし、自分の好きなものをまもる一員になりたいのだ、と思った。自分本位のエゴである。
自分の美意識に合った世界をつくりたいし、関わりたい、というエゴなのだ。
これは、国際協力に携わる、不純な動機なのだろうか。
そして漠然と出した答えは二つ、「芸術」か「国際協力」。
「芸術」は、実践するのではなく、詳しく学んでみたいと思っていた。絵や音楽を、鑑賞するのが好きだったからだ。
「国際協力」は、自分が毎日平々凡々とした生活を送っている一方で、戦争や貧困に苦しむ人びとがいるのは何故なのか、どうしてそのような状況があるのかということを、知りたかった。
私は二つを自分の中にある天秤にかけ、後者を選んだ。
国際政治を学べば、そういうことがわかるのかな…と考え、国際政治学を専攻した。
高校生のときは、本当に単純に、このようなことを考え、このような道を選んだのだ。
大学に入って、講義を受けたり、本を読んだり、イベントや講演会に出かけてみて、物事の善し悪しというのは、単純ではないのだということを、だんだん感じるようになった。
この世界の構造に対して、日本という国の、東京という大都市に生まれ育った私は、どうすることが正しいのか、何ができるのか。
東京生まれ東京育ちの私は、完全に、資本主義にどっぷり浸かり、生きているだけで、誰かから何かを奪っているのだと思った。
自分が生きるために必要なもの。資源や食糧。
学べば学ぶほど、考えれば考えるほど、本当にわからなくて、苦悩した。
自分の進路も、わからなくなった。志すべき方向が、わからなくなった。
そのうち、自分の生きる意味を問うようになった。毎日毎日、考え続けた。
今もその明確な答えはわからない。
でも、なんとなく、わかったこともある。
私は、子どもと自然とアート、そして、異文化が好きなのだ、ということ。
好きだから、感じたい、好きだから、まもりたい。
人助けとか、社会貢献とかがしたいというのではない。
変な言い方をすれば、むしろ自分を救いたいのだ、と思う。
それらと関わることによって、自分の欲望を満たしたいというだけのこと。
よく、発展途上国と呼ばれる国に行って、子どもたちと交流して、子どもたちは貧しいけれど笑顔が可愛くて、元気をもらった、とかいう感想を聞くけれど、正にそれ、だと思う。
何が人の役に立つ、何が人のためになる、という観点が、一番大切なのだから、それをわきまえなければならない、と思っていた。
国際協力に携わるための、論理的な根拠が必要だと思っていた。
でも、それを考え出しても、わからなくて、自分にできることの答えが見つからなかった。
私は、ただ単純に、自分の好きなものと関わっていたいし、自分の好きなものをまもる一員になりたいのだ、と思った。自分本位のエゴである。
自分の美意識に合った世界をつくりたいし、関わりたい、というエゴなのだ。
これは、国際協力に携わる、不純な動機なのだろうか。
2009年2月1日日曜日
今年の目標
昨日、新宿のとあるカフェでのとある怪しいパーティーで、国際NGO論のK先生とその仲間たち(?)と、仲間たちのそのまた仲間たちと色々お話をした。
K先生の直属のHさんとお話しているときにHさんは「やっぱ人間目標がないとあかん。」という発言をなさっていた。
「…だよなぁ。」と思った。
そんな私は、今年の目標を「等身大」と掲げていたのだけれど、もう一つ付け加えることにしようと思う。
それは「約束を守る」ということ。
これは簡単そうで簡単ではない目標だ。私にとって。
きちんと時間を守る。やると言ったことはやる。そういう社会の中で生きる人間の基本みたいなことに立ち返って、自分自身を戒める必要性をこの頃ひしひしと感じている。
そういうことを意識してやるようにしなければ、私という人間は自分自身が堕ちていってしまうタイプの人間なのだ。生きることを楽しむとか、そういうレベルではない。この、「約束を守る」ということは、約束の大小は色々とあるだろうが、自分にとってはこれができるかできないかは文字通り死活問題と言っても言い過ぎではない気がする。
私は、そういう人なのだ。
自分をゆるしたら、どこまでもゆるしてしまう。そして、それは自分の生を捨ててしまうことにつながる。
だから、「約束を守る」ことを肝に銘じたい。
ここに書いて、自分にプレッシャーを与える。
「等身大」でありつつ、「約束を守る」こと。
これはもしかしたら、トレードオフの関係なのかもしれない。
でも、努力しよう。
K先生の直属のHさんとお話しているときにHさんは「やっぱ人間目標がないとあかん。」という発言をなさっていた。
「…だよなぁ。」と思った。
そんな私は、今年の目標を「等身大」と掲げていたのだけれど、もう一つ付け加えることにしようと思う。
それは「約束を守る」ということ。
これは簡単そうで簡単ではない目標だ。私にとって。
きちんと時間を守る。やると言ったことはやる。そういう社会の中で生きる人間の基本みたいなことに立ち返って、自分自身を戒める必要性をこの頃ひしひしと感じている。
そういうことを意識してやるようにしなければ、私という人間は自分自身が堕ちていってしまうタイプの人間なのだ。生きることを楽しむとか、そういうレベルではない。この、「約束を守る」ということは、約束の大小は色々とあるだろうが、自分にとってはこれができるかできないかは文字通り死活問題と言っても言い過ぎではない気がする。
私は、そういう人なのだ。
自分をゆるしたら、どこまでもゆるしてしまう。そして、それは自分の生を捨ててしまうことにつながる。
だから、「約束を守る」ことを肝に銘じたい。
ここに書いて、自分にプレッシャーを与える。
「等身大」でありつつ、「約束を守る」こと。
これはもしかしたら、トレードオフの関係なのかもしれない。
でも、努力しよう。
2009年1月30日金曜日
読後感
「海辺のカフカ」を読み終えた。
読んでいる間、色々な感情、考えが湧き起こっては消えていった。
私は影響を受けやすい人間なのかもしれない。今までものを見聞きするときに適用してきた価値観を適用して「異質」だと感じられるものに出会ったとき、私は動揺し、自分の前に姿を現したその「異質」なものの意味について、しっくりくるまで考える。
その間、自分がなんとなく抱いてきた価値観、信じるものの意味が揺さぶられる感じがして、いささか苦しい。
ひとは何かを無視しなければ生きることができない。
何かを無視することによって、ひとは生きていると思う。
そうやって、成り立っていると思う。
結論めいたものがあっても、それが結論かどうかはわからないし、その結論らしき部分とは矛盾するような別の結論らしきものが出てきたりして、何故か不安にさせられた。 それと同時に、本来あらゆるものごとは必ず矛盾をはらんでいるものだし、一人の人間の中にも、矛盾している部分なんていくらでもあるはずだ、と思う。結論なんて、ないよ、と。そして、そう考えると、何と何が矛盾しているのかということさえも、よくわからなくなってくる。
何かしらの「結論」を求めようとすることが、知らず知らずのうちに自分の習慣となっていたということに気づく。
結論があったら、生きている意味なんてないのかもしれない。
結論がないから、生きているのかもしれない。
言葉によって何かを伝えているという立場にありながら、小説という手段は、限りなく中立的な立場にいることができるのだと思う。「海辺のカフカ」を読みながら、そんな風に思った。
読んでいる間、色々な感情、考えが湧き起こっては消えていった。
私は影響を受けやすい人間なのかもしれない。今までものを見聞きするときに適用してきた価値観を適用して「異質」だと感じられるものに出会ったとき、私は動揺し、自分の前に姿を現したその「異質」なものの意味について、しっくりくるまで考える。
その間、自分がなんとなく抱いてきた価値観、信じるものの意味が揺さぶられる感じがして、いささか苦しい。
ひとは何かを無視しなければ生きることができない。
何かを無視することによって、ひとは生きていると思う。
そうやって、成り立っていると思う。
結論めいたものがあっても、それが結論かどうかはわからないし、その結論らしき部分とは矛盾するような別の結論らしきものが出てきたりして、何故か不安にさせられた。 それと同時に、本来あらゆるものごとは必ず矛盾をはらんでいるものだし、一人の人間の中にも、矛盾している部分なんていくらでもあるはずだ、と思う。結論なんて、ないよ、と。そして、そう考えると、何と何が矛盾しているのかということさえも、よくわからなくなってくる。
何かしらの「結論」を求めようとすることが、知らず知らずのうちに自分の習慣となっていたということに気づく。
結論があったら、生きている意味なんてないのかもしれない。
結論がないから、生きているのかもしれない。
言葉によって何かを伝えているという立場にありながら、小説という手段は、限りなく中立的な立場にいることができるのだと思う。「海辺のカフカ」を読みながら、そんな風に思った。
2009年1月29日木曜日
もろもろのこと
どうして一日に二回も投稿しちゃうんだろう。書きすぎなのだろうか。
これから、今までちょこちょこ書きためた雑文を、ブログにちょこちょこ貼っていこうと思う。
何でかわからないけれど、公開したいという気持ちが、出てきたみたい。
ブログタイトルは、最初違うものだったのだけれど、何かかゆい感じだったので、変えました。笑
タイトルは、そんなに深い意味はないです、たぶん。
私のブログは、本当に具体性がない。
のわりには、完全にフィクションなわけでもなく、非常に中途半端だなと思う。
日々考えること、感じることには、もちろん言語化できないこともたくさんたくさんあって。
でも、言葉という表現手段で、その範囲内でできる業も、とても魅力的だと思う。
同じ言語でも、使う人によって、全然表現される世界が違うのが、面白い。
強い文、やわらかい文、論理的な文、観念的な文…
絵でも、文でも、写真でも、音楽でも、それを見たり聞いたり感じたりしたときに、「ああ、この人には、世界がこんな風に見えるんだ」というのを、知ることが面白い。
もっと言えば、絵や文みたいな、作品に限らず、話される言葉とか、そういうことも全部だけれど。
今、「海辺のカフカ」を読んでいるのだけれど、
ああ、村上春樹という人はずるい、と私なんかは、頭の片隅で思ってしまう。
難しい表現はほとんど使わないで、誰にも肩入れしなくて、良いも悪いも言わず、わからないことをわからないと言うしなやかさ。正直で、澄んでる。ドライなのに、やさしい。
ずるいなあ。笑
ちまちまと、いろいろなことを、深く考えて、うだうだと悩んでばかりいる私のような人間にとっては、感じるままに表現している人は、とても魅力的に感じる。自然でいいなとか、ちょっと、思う。
やっぱり、まだまだ、修行が足りない。自分が感じるままに、好きなことをやる修行が。
「恋に恋する」みたいに、「表現することに恋してる」みたいだ。
ほら、うまくできない…泣
これから、今までちょこちょこ書きためた雑文を、ブログにちょこちょこ貼っていこうと思う。
何でかわからないけれど、公開したいという気持ちが、出てきたみたい。
ブログタイトルは、最初違うものだったのだけれど、何かかゆい感じだったので、変えました。笑
タイトルは、そんなに深い意味はないです、たぶん。
私のブログは、本当に具体性がない。
のわりには、完全にフィクションなわけでもなく、非常に中途半端だなと思う。
日々考えること、感じることには、もちろん言語化できないこともたくさんたくさんあって。
でも、言葉という表現手段で、その範囲内でできる業も、とても魅力的だと思う。
同じ言語でも、使う人によって、全然表現される世界が違うのが、面白い。
強い文、やわらかい文、論理的な文、観念的な文…
絵でも、文でも、写真でも、音楽でも、それを見たり聞いたり感じたりしたときに、「ああ、この人には、世界がこんな風に見えるんだ」というのを、知ることが面白い。
もっと言えば、絵や文みたいな、作品に限らず、話される言葉とか、そういうことも全部だけれど。
今、「海辺のカフカ」を読んでいるのだけれど、
ああ、村上春樹という人はずるい、と私なんかは、頭の片隅で思ってしまう。
難しい表現はほとんど使わないで、誰にも肩入れしなくて、良いも悪いも言わず、わからないことをわからないと言うしなやかさ。正直で、澄んでる。ドライなのに、やさしい。
ずるいなあ。笑
ちまちまと、いろいろなことを、深く考えて、うだうだと悩んでばかりいる私のような人間にとっては、感じるままに表現している人は、とても魅力的に感じる。自然でいいなとか、ちょっと、思う。
やっぱり、まだまだ、修行が足りない。自分が感じるままに、好きなことをやる修行が。
「恋に恋する」みたいに、「表現することに恋してる」みたいだ。
ほら、うまくできない…泣
続・「笑い」について
「笑い」にまつわることの続き…
以前、「笑い」に関してのシンポジウムの対談本である「笑いの力」という本を読んだ。
それで印象的だったのは、「笑いというものは差別性を含んでいる」というような話だった。
なるほどなあ、と思った。
笑いが起こるときというのは、笑われる対象があるわけで、笑われる側からしたら、場合によっては、侮蔑されているととるかもしれない。笑う側と笑われる側は対等な関係ではないということ。笑いのネタとなることは、意図的であってもそうでなくても、差別性を含む可能性があるということ。「嘲笑」は、笑う側が最初から対象を侮蔑することを意図して行うものだし、「笑い」にも色々ある。
でも、自然とこぼれる「笑い」というか、「笑み」もある。
そう考えると、やっぱり世の中はわからないことばかりだけれど、やっぱり人は面白い。
以前、「笑い」に関してのシンポジウムの対談本である「笑いの力」という本を読んだ。
それで印象的だったのは、「笑いというものは差別性を含んでいる」というような話だった。
なるほどなあ、と思った。
笑いが起こるときというのは、笑われる対象があるわけで、笑われる側からしたら、場合によっては、侮蔑されているととるかもしれない。笑う側と笑われる側は対等な関係ではないということ。笑いのネタとなることは、意図的であってもそうでなくても、差別性を含む可能性があるということ。「嘲笑」は、笑う側が最初から対象を侮蔑することを意図して行うものだし、「笑い」にも色々ある。
でも、自然とこぼれる「笑い」というか、「笑み」もある。
そう考えると、やっぱり世の中はわからないことばかりだけれど、やっぱり人は面白い。
2009年1月28日水曜日
今のうち
ひまがあれば、ブログを書いている気がする…
今のうちかもしれないなあ。
頭に浮かんだことを全部言葉にしていたら膨大になってしまうけれど、でも、なるべくたくさん、言いたいこと言いたい笑
声に出してしゃべるとまとまらないけれど、書くと整理される。
ときによって違うけれど、今は書きたいことがたくさんある。
最近ふと思ったこと。
怒られることも、ほめられることも、非難されることも、泣かれることも、全部、その人を認めているからこそ、だよなあ、と。
好きとか嫌いとか、そういう次元ではなくて、「存在」を認めているということ。
その人という存在に対するレスポンスだということ。
反応し合って生きてるから、ひとって面白いんだなと、思う。
非難されたり、怒られたりしたら、辛いし、悲しくなるけれど、
それも自分という存在に反応してくれてるからこそ、と思えば、ね。
自分のことばっかり書いてるなあ、若さだなあ。笑
もっと、具体的なことも、書こう。
今のうちかもしれないなあ。
頭に浮かんだことを全部言葉にしていたら膨大になってしまうけれど、でも、なるべくたくさん、言いたいこと言いたい笑
声に出してしゃべるとまとまらないけれど、書くと整理される。
ときによって違うけれど、今は書きたいことがたくさんある。
最近ふと思ったこと。
怒られることも、ほめられることも、非難されることも、泣かれることも、全部、その人を認めているからこそ、だよなあ、と。
好きとか嫌いとか、そういう次元ではなくて、「存在」を認めているということ。
その人という存在に対するレスポンスだということ。
反応し合って生きてるから、ひとって面白いんだなと、思う。
非難されたり、怒られたりしたら、辛いし、悲しくなるけれど、
それも自分という存在に反応してくれてるからこそ、と思えば、ね。
自分のことばっかり書いてるなあ、若さだなあ。笑
もっと、具体的なことも、書こう。
2009年1月25日日曜日
「笑い」について
ときどき、「笑い」ということについて、真剣に考える。
私は、「笑い」というのは、この世の中の矛盾を、調整する役割があるのではないかと思う。
世の中の「ほころび」を繕うイメージ。
この社会、この世界について、真面目に真面目に、ひたむきに、論理的につきつめていこうとすると、どこかで必ずや矛盾が生じる。絶対なる真理、絶対なる善などというものはないということ、人間には説明できないものがあるということに、気がつく。世の中の理不尽さに、気がつく。
圧倒的な理不尽さを前にしたとき、それを誰かのせいにしたくなる。これが悪い、あれが悪い、お前が悪い、または自分が悪い、と言いたくなる。
「笑い」はそこから人を助ける役割を担うと思う。
自分がどう頑張っても覆せない理不尽さが、この世の中にはあると思う。
どう頑張っても悲しいことや、どう頑張っても腑に落ちないこと。
戦火の市民なんかは、圧倒的な理不尽さを、突きつけられる。
そういうとき、人を「怒り」や「排他性」から救うのは、「笑い」だと私は思う。
何だか少しおかしいこと、何だか少し滑稽なこと、何だか少し愛らしいことを目や耳にしたとき、何故だかわからないけれど、笑う。
矛盾に溢れた世界でも、「笑い」は、帳尻を合わせる力を持って、人に生きていく力を与えていると、私は思う。
私は、「笑い」というのは、この世の中の矛盾を、調整する役割があるのではないかと思う。
世の中の「ほころび」を繕うイメージ。
この社会、この世界について、真面目に真面目に、ひたむきに、論理的につきつめていこうとすると、どこかで必ずや矛盾が生じる。絶対なる真理、絶対なる善などというものはないということ、人間には説明できないものがあるということに、気がつく。世の中の理不尽さに、気がつく。
圧倒的な理不尽さを前にしたとき、それを誰かのせいにしたくなる。これが悪い、あれが悪い、お前が悪い、または自分が悪い、と言いたくなる。
「笑い」はそこから人を助ける役割を担うと思う。
自分がどう頑張っても覆せない理不尽さが、この世の中にはあると思う。
どう頑張っても悲しいことや、どう頑張っても腑に落ちないこと。
戦火の市民なんかは、圧倒的な理不尽さを、突きつけられる。
そういうとき、人を「怒り」や「排他性」から救うのは、「笑い」だと私は思う。
何だか少しおかしいこと、何だか少し滑稽なこと、何だか少し愛らしいことを目や耳にしたとき、何故だかわからないけれど、笑う。
矛盾に溢れた世界でも、「笑い」は、帳尻を合わせる力を持って、人に生きていく力を与えていると、私は思う。
花が生まれそう
今、私の家には花瓶にポピーが活けてある。
それが、面白いことになっていたので、携帯で撮影してみた。
卵から雛が生まれてくるさまに似た、もうすぐで殻が割れて出てきそうなつぼみ。
じっと待っていたらいつの間にかぱっくり開いて文字通り「開花」するんだろうな。
何か、生命力を感じる。
花って、よく見ると面白い。
つぼみに短い毛がいっぱい生えてて、さわり心地が刈ったばっかりの少年の頭みたいだったりする笑。

花とか、見てる時間て、早さが少し違うなと思う。
そこに展開されているミクロな宇宙に、吸い寄せられる感覚。
小さいとき、しょっちゅうこんな風に流れていた時間の感覚を思い出す。
ポピーの写真。手前が孵化しそうなつぼみくん。
暗いし、画質があんまり良くないので写真はあまりはっきり見えませんが、実物はもっと質感たっぷりです。
しかしながらこのポピー、どことなく艶めかしく感じられるのは私だけでしょうか。
いいなー笑
それが、面白いことになっていたので、携帯で撮影してみた。
卵から雛が生まれてくるさまに似た、もうすぐで殻が割れて出てきそうなつぼみ。
じっと待っていたらいつの間にかぱっくり開いて文字通り「開花」するんだろうな。
何か、生命力を感じる。
花って、よく見ると面白い。
つぼみに短い毛がいっぱい生えてて、さわり心地が刈ったばっかりの少年の頭みたいだったりする笑。

花とか、見てる時間て、早さが少し違うなと思う。
そこに展開されているミクロな宇宙に、吸い寄せられる感覚。
小さいとき、しょっちゅうこんな風に流れていた時間の感覚を思い出す。
ポピーの写真。手前が孵化しそうなつぼみくん。
暗いし、画質があんまり良くないので写真はあまりはっきり見えませんが、実物はもっと質感たっぷりです。
しかしながらこのポピー、どことなく艶めかしく感じられるのは私だけでしょうか。
いいなー笑
関係性の中にある
誰かを羨んだり、それでねたんだりすることは、自分のためにならない。
誰かに憧れることは、自分のためになる。その方が自分にとってずっとやさしい。
自分という存在は関係性の中にある。
生きとし生けるもの。
人や、動物や、建物や、空気や、水や、土や、木や、音…などなど。
だから、自分という存在は孤立できないし、自分の思ったとおりになんて、当然ことは運ばない。
関係性の中にいる自分には、何が起こるかなんてわかりっこない。ほかのあらゆるものが、動いている中で、そのすべてを予測することはできないから。
それと同時に、自分が何かをすると、それだけで世界は変わる。全部がつながった、関係性の中に自分がいるのだから。
自分が息をすれば、空気が振動する。
自分が歩けば、地面に音が響く。
自分が何かを伝えようとすると、誰かがそれに気づいて、何か返してくれるかもしれない。
自分のすることは、何かを変えている。
生きてるだけで、何かを創りだしてる。創り変えてる。
関係性を意識すると面白い。
「わたし」は「わたし」だけでいるわけじゃない、ということ。(当たり前だけど。)
「Aさん」は「Aさん」だけでいるわけじゃない、ということ。
「トム」は「トム」だけでいるわけじゃない、ということ。
でも、人はたまにそのことを忘れる。それで自分のことをせめて自暴自棄になったり、逆に、人にあたったり。
いろんな人やものと接して、たくさんの偶然を経て今の姿になったのが、この自分。
Aさんも、トムも、ぽちもタマもみんな。
そう考えると、面白い。
どの人もこの人も、面白い。
だから生きてることは面白いんだな~。
誰かに憧れることは、自分のためになる。その方が自分にとってずっとやさしい。
自分という存在は関係性の中にある。
生きとし生けるもの。
人や、動物や、建物や、空気や、水や、土や、木や、音…などなど。
だから、自分という存在は孤立できないし、自分の思ったとおりになんて、当然ことは運ばない。
関係性の中にいる自分には、何が起こるかなんてわかりっこない。ほかのあらゆるものが、動いている中で、そのすべてを予測することはできないから。
それと同時に、自分が何かをすると、それだけで世界は変わる。全部がつながった、関係性の中に自分がいるのだから。
自分が息をすれば、空気が振動する。
自分が歩けば、地面に音が響く。
自分が何かを伝えようとすると、誰かがそれに気づいて、何か返してくれるかもしれない。
自分のすることは、何かを変えている。
生きてるだけで、何かを創りだしてる。創り変えてる。
関係性を意識すると面白い。
「わたし」は「わたし」だけでいるわけじゃない、ということ。(当たり前だけど。)
「Aさん」は「Aさん」だけでいるわけじゃない、ということ。
「トム」は「トム」だけでいるわけじゃない、ということ。
でも、人はたまにそのことを忘れる。それで自分のことをせめて自暴自棄になったり、逆に、人にあたったり。
いろんな人やものと接して、たくさんの偶然を経て今の姿になったのが、この自分。
Aさんも、トムも、ぽちもタマもみんな。
そう考えると、面白い。
どの人もこの人も、面白い。
だから生きてることは面白いんだな~。
2009年1月21日水曜日
丁度よく、生きたい
生きる意欲って何だろう。
私は「生きたい」っていう気持ちが強い方ではないかと、自分では思っている。何というか、「生きてる」という生々しい感覚がほしいのだ。それがなかなかうまい具合に獲得できない。だからと言って、別に生きている感覚がないというのではない。ただ、どこかで、もっともっと有益に自分のいのちを使えるんじゃないか、というようなことを、思ってしまう。
色々なひとや、色々な物事に刺激を受けて、自分が目指すべき理想の自分というものが、どんどん変わるし、どんどん増える。欲望が強い人間だなーと思う。「丁度いい」という状態に至るのが難しい。自分の状態になかなか満足がいかない。ふらふらしてて、苦しい。
こんな私は、とてつもなくポジティブになるか、はたまたどん底までネガティブになるか、そのどちらかに向かうばっかりだ。
いつか私は「丁度よく」生きる術を身につけられるようになるのだろうか。
私は「生きたい」っていう気持ちが強い方ではないかと、自分では思っている。何というか、「生きてる」という生々しい感覚がほしいのだ。それがなかなかうまい具合に獲得できない。だからと言って、別に生きている感覚がないというのではない。ただ、どこかで、もっともっと有益に自分のいのちを使えるんじゃないか、というようなことを、思ってしまう。
色々なひとや、色々な物事に刺激を受けて、自分が目指すべき理想の自分というものが、どんどん変わるし、どんどん増える。欲望が強い人間だなーと思う。「丁度いい」という状態に至るのが難しい。自分の状態になかなか満足がいかない。ふらふらしてて、苦しい。
こんな私は、とてつもなくポジティブになるか、はたまたどん底までネガティブになるか、そのどちらかに向かうばっかりだ。
いつか私は「丁度よく」生きる術を身につけられるようになるのだろうか。
2009年1月18日日曜日
はじめて書きます
自分の中にうずうずとした何かがある時、自分がどうにもコントロールできず手に負えなくなるので何とかそれを言葉にすることで一時的な解決を試みる。楽しくて言葉にしたいときもあるし、楽しいなんて程遠い苦しさの渦中にいるときもある。でもとにかくそれを何とか言葉に変換して自分の中から出しておかないと気が済まないのだ。だから思ったこと、考えたこと、何だか知らないけれど言いたいこと、自分の頭や胸の中でぐるぐると渦巻いていること等を、私は表現する。表現することで何とかバランスをとって生きているような気がする。そういうわけでブログを開設してみた。別に自分のためだけの日記に書けばいいじゃんとつっこみたくなるけれど、たぶんどこかで自分を人にさらけ出し、反応してもらいたいという欲望があるのだろう、と思ったりする。
まだまだまだまだ、うまく言葉にして表現できていないと、いつも自分の力量の不足を感じてしまいます。
まだまだまだまだ、うまく言葉にして表現できていないと、いつも自分の力量の不足を感じてしまいます。
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