2009年12月2日水曜日

未来志向、思考。

最近なかなかブログを書く時間がとれなかった。日々思うこと、考えることを「書きたい、書きたい」という気持ちはあったのだけれど、その頭の中にあるものを言語化する前に、体が「お休み」信号を出してしまっていたのである。たいていは、ブログを書く時間より眠る時間をとったということだ。
気がつけば、もう師走。イチョウもすっかり、黄色い。



今日は、ESD(Education for Sustainable Development)論の授業で、事例を発表するために、新宿の大久保にある小学校にお話をお聞きしに行った。大久保は外国人が多く住む街で、その小学校は外国籍の子どもが多く通うので、言語や文化と教育という問題から、多文化共生といった視点で注目されることが多いけれど、地域とのつながりや環境という観点から、総合的な学習がESDの事例としても捉えられる実践的な授業がなされた小学校なのだ。

詳しい授業内容は割愛するけれども、この小学校の向かい側には「小泉八雲公園」という公園があり、(小説家の小泉八雲/ラフカディオハーンが、かつてこの街に住んでいたことにちなんで、記念の公園のような形になっている)その公園の花壇へお花を植えることや、小泉八雲の銅像をきれいにすることを、この小学校の子どもたちが参加して行い、フクロウをモチーフにした記念オブジェと碑を建てたのである。地域住民や区役所の職員、そして大学でコンクリートの研究を行う専門家をも巻き込んで、このプロジェクトは子どもたちが主体的に参加して進行していったそうだ。

そして今日はこの授業をファシリテートされた先生にお会いし、お話をお伺いした。
まず、とても熱い。とにかく熱い先生だった。
先生のお話の教育論が印象的であった。子どもが学びの主体である、ということ。授業というのは、先生と子どもが相互に学びあう場だということ等々。

そして、総合的な学習の中で行われたこのプロジェクトの、結果より大切なのは、プロセスだということ。

子どもたちが、自ら、今目の前で起きている地域の環境問題、社会問題に「気づき」、「考える」、ということ。
何をやったか、という「結果の大きさ」ではなく、大切なのは、「自分たちで社会に働きかける行動を起こすことができる」ということを「実感」できるということ。そのようなことを、先生は強調しておられた。
(BlueBirdsの活動の中で、まさに私が感じたことだなあ、と思った。)

このような、「プロセスを重視する」とか、用意された解答を覚えたり、知識を詰め込むのではなく、自分たちの身の回りで起きていること、教科書に書かれたことではなく「今」「そこで」起きていることを考えるというようなことは、皆ESD的な学びの要素であり、従来の学校教育へのアンチテーゼとも言える。

今、教育の場にも、社会にも、必要とされているのは、このような、自分たちでアイデアを生み出す創造性であったり、上意下達ではなく相互に対話する姿勢であったり、身の回りや世界のことと自分を「つなぐ」ということであったり、人とつながって何かをすることではないか、と本当に思う。

今までバラバラだったものがつながり直す、ということがとても大切ではないかと思う。

政治でも、縦割り行政の問題点はよく指摘されるけれど、縦割り、ではなく、横につながること、が必要だと思う。

学校と地域と行政、NPO/NGOと企業、大学(研究)とNGO/NPO(実践)、等々…

教育の中身も、教科横断的な学び、というものが求められてる、と思う。

それを意図して創設されたのが「総合的な学習」の時間だけれど、今日お話して下さった先生は、また総合学習の時間が減らされるということでがっかりなさっていた。ESDのような学びが日本に広まれば、日本の教育はとても良くなると思うけれど、現状を考えると非常に悲観的だ、と。

先生の、現場主義、私はそこから、社会から見落とされがちだけれど、とても重要なものを感じた。当たり前だけれど、現場が先にあるのだ、というシンプルで、一番大切なこと。
ともすると「誰かの言葉」で語られた二次的、三次的な情報で物事を判断してしまいがちな危うい自分に気づき、はっとさせられた。わかっているけれど、「知ったかぶり」は簡単にできてしまうから、恐ろしい。違うよ、違う。やっぱり「現場」が先だ。

二度と同じ授業はできるものではない、と先生はおっしゃっていた。その言葉に、「現場」の意味は凝縮されているような気がする。
画一的なマニュアルが先にあるのではない。理論が先にあるのではない。

誰もが答えを持たない、さまざまな問題を社会が抱えている今日、「解がわからない」という点で、誰もが同じ立場にあるのではないかと思う。

でも、だからこそ、ひとりひとりが知恵を出し合うことが必要であり、相互に対話し合い、つながり合うことが、必要なのだと思う。完璧な理論もマニュアルも誰も持っていないけれど、課題という現場があり、その現場現場で、それぞれの人間が悩み、考え、人びとが話し合って知恵を出し合い借り合い学びあって、試行錯誤して進んでいく、そういうときなのではないか。

そんなことを考える、今日この頃。

ああー、書ききれない。笑

うまくまとまらないけれど、「つながり」「対話」とかって、ホント、キーワードだと思う。

その大切さを、最近よく実感する。


何で大学院の授業は面白いのだろう、と考えたとき、顔の見える距離で先生や他の受講者の意見を聞いたり、交換し合えるということが、大きいのではないかと思ったのだ。私は、そのように、きちんと自分の意見を言い、聞いてもらい、他の人の意見を聞く、という経験が、今まで少なかったのかもしれない。だから、刺激的だし、学ぶことが、とても多いのだ。そして何よりそういう場は、楽しい。

大きい声を出せる人の意見が通ったり、誰かの意見が排除されるのではなく、そこにいる人が皆ほぼ対等な立場でお互いに意見を言い合えるというのは、それだけで、何か創造的な場であり、「癒し」とでも言えるような効果が、人と人の間に生まれるような気がする。もちろん、人の意見にきちんと耳を傾ける、という倫理的な姿勢が欠けてしまっては成り立たないけれど。


ああ、書ききれない……笑笑

いつの間にか真夜中になってしまったので、また改めて、いろいろ書きたいと思う。

まだまだ、たくさんあるのだけれど…。

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