2009年1月30日金曜日

読後感

「海辺のカフカ」を読み終えた。

読んでいる間、色々な感情、考えが湧き起こっては消えていった。

私は影響を受けやすい人間なのかもしれない。今までものを見聞きするときに適用してきた価値観を適用して「異質」だと感じられるものに出会ったとき、私は動揺し、自分の前に姿を現したその「異質」なものの意味について、しっくりくるまで考える。
その間、自分がなんとなく抱いてきた価値観、信じるものの意味が揺さぶられる感じがして、いささか苦しい。

ひとは何かを無視しなければ生きることができない。
何かを無視することによって、ひとは生きていると思う。
そうやって、成り立っていると思う。

結論めいたものがあっても、それが結論かどうかはわからないし、その結論らしき部分とは矛盾するような別の結論らしきものが出てきたりして、何故か不安にさせられた。 それと同時に、本来あらゆるものごとは必ず矛盾をはらんでいるものだし、一人の人間の中にも、矛盾している部分なんていくらでもあるはずだ、と思う。結論なんて、ないよ、と。そして、そう考えると、何と何が矛盾しているのかということさえも、よくわからなくなってくる。


何かしらの「結論」を求めようとすることが、知らず知らずのうちに自分の習慣となっていたということに気づく。

結論があったら、生きている意味なんてないのかもしれない。
結論がないから、生きているのかもしれない。


言葉によって何かを伝えているという立場にありながら、小説という手段は、限りなく中立的な立場にいることができるのだと思う。「海辺のカフカ」を読みながら、そんな風に思った。

2009年1月29日木曜日

もろもろのこと

どうして一日に二回も投稿しちゃうんだろう。書きすぎなのだろうか。

これから、今までちょこちょこ書きためた雑文を、ブログにちょこちょこ貼っていこうと思う。
何でかわからないけれど、公開したいという気持ちが、出てきたみたい。

ブログタイトルは、最初違うものだったのだけれど、何かかゆい感じだったので、変えました。笑

タイトルは、そんなに深い意味はないです、たぶん。

私のブログは、本当に具体性がない。
のわりには、完全にフィクションなわけでもなく、非常に中途半端だなと思う。

日々考えること、感じることには、もちろん言語化できないこともたくさんたくさんあって。
でも、言葉という表現手段で、その範囲内でできる業も、とても魅力的だと思う。

同じ言語でも、使う人によって、全然表現される世界が違うのが、面白い。
強い文、やわらかい文、論理的な文、観念的な文…

絵でも、文でも、写真でも、音楽でも、それを見たり聞いたり感じたりしたときに、「ああ、この人には、世界がこんな風に見えるんだ」というのを、知ることが面白い。
もっと言えば、絵や文みたいな、作品に限らず、話される言葉とか、そういうことも全部だけれど。


今、「海辺のカフカ」を読んでいるのだけれど、
ああ、村上春樹という人はずるい、と私なんかは、頭の片隅で思ってしまう。

難しい表現はほとんど使わないで、誰にも肩入れしなくて、良いも悪いも言わず、わからないことをわからないと言うしなやかさ。正直で、澄んでる。ドライなのに、やさしい。

ずるいなあ。笑

ちまちまと、いろいろなことを、深く考えて、うだうだと悩んでばかりいる私のような人間にとっては、感じるままに表現している人は、とても魅力的に感じる。自然でいいなとか、ちょっと、思う。

やっぱり、まだまだ、修行が足りない。自分が感じるままに、好きなことをやる修行が。

「恋に恋する」みたいに、「表現することに恋してる」みたいだ。

ほら、うまくできない…泣

続・「笑い」について

「笑い」にまつわることの続き…

以前、「笑い」に関してのシンポジウムの対談本である「笑いの力」という本を読んだ。

それで印象的だったのは、「笑いというものは差別性を含んでいる」というような話だった。
なるほどなあ、と思った。

笑いが起こるときというのは、笑われる対象があるわけで、笑われる側からしたら、場合によっては、侮蔑されているととるかもしれない。笑う側と笑われる側は対等な関係ではないということ。笑いのネタとなることは、意図的であってもそうでなくても、差別性を含む可能性があるということ。「嘲笑」は、笑う側が最初から対象を侮蔑することを意図して行うものだし、「笑い」にも色々ある。

でも、自然とこぼれる「笑い」というか、「笑み」もある。

そう考えると、やっぱり世の中はわからないことばかりだけれど、やっぱり人は面白い。

2009年1月28日水曜日

今のうち

ひまがあれば、ブログを書いている気がする…
今のうちかもしれないなあ。

頭に浮かんだことを全部言葉にしていたら膨大になってしまうけれど、でも、なるべくたくさん、言いたいこと言いたい笑 

声に出してしゃべるとまとまらないけれど、書くと整理される。
ときによって違うけれど、今は書きたいことがたくさんある。

最近ふと思ったこと。
怒られることも、ほめられることも、非難されることも、泣かれることも、全部、その人を認めているからこそ、だよなあ、と。
好きとか嫌いとか、そういう次元ではなくて、「存在」を認めているということ。
その人という存在に対するレスポンスだということ。

反応し合って生きてるから、ひとって面白いんだなと、思う。

非難されたり、怒られたりしたら、辛いし、悲しくなるけれど、
それも自分という存在に反応してくれてるからこそ、と思えば、ね。


自分のことばっかり書いてるなあ、若さだなあ。笑

もっと、具体的なことも、書こう。

懐かしい

夜、地下鉄の入口に向かって歩いているとき、会社帰りのおじさんたちの会話が聞こえてきた。

その中で、「営団地下鉄」という言葉が聞こえた。
何だかあったかいような、愛おしいような気持ちになった。

「メトロ」より、堅物なようで、色々なひとの思いを、受け入れて運んでくれそうな気がする。そんな器のにおいがする。

おばあちゃんなんかが、「国鉄」って言うときと、似たような感じだ。

ちょっと昔の風景が、一瞬前をかすめていく。

2009年1月25日日曜日

「笑い」について

ときどき、「笑い」ということについて、真剣に考える。

私は、「笑い」というのは、この世の中の矛盾を、調整する役割があるのではないかと思う。

世の中の「ほころび」を繕うイメージ。

この社会、この世界について、真面目に真面目に、ひたむきに、論理的につきつめていこうとすると、どこかで必ずや矛盾が生じる。絶対なる真理、絶対なる善などというものはないということ、人間には説明できないものがあるということに、気がつく。世の中の理不尽さに、気がつく。

圧倒的な理不尽さを前にしたとき、それを誰かのせいにしたくなる。これが悪い、あれが悪い、お前が悪い、または自分が悪い、と言いたくなる。

「笑い」はそこから人を助ける役割を担うと思う。

自分がどう頑張っても覆せない理不尽さが、この世の中にはあると思う。
どう頑張っても悲しいことや、どう頑張っても腑に落ちないこと。
戦火の市民なんかは、圧倒的な理不尽さを、突きつけられる。

そういうとき、人を「怒り」や「排他性」から救うのは、「笑い」だと私は思う。
何だか少しおかしいこと、何だか少し滑稽なこと、何だか少し愛らしいことを目や耳にしたとき、何故だかわからないけれど、笑う。

矛盾に溢れた世界でも、「笑い」は、帳尻を合わせる力を持って、人に生きていく力を与えていると、私は思う。

花が生まれそう

今、私の家には花瓶にポピーが活けてある。

それが、面白いことになっていたので、携帯で撮影してみた。



卵から雛が生まれてくるさまに似た、もうすぐで殻が割れて出てきそうなつぼみ。

じっと待っていたらいつの間にかぱっくり開いて文字通り「開花」するんだろうな。


何か、生命力を感じる。


花って、よく見ると面白い。


つぼみに短い毛がいっぱい生えてて、さわり心地が刈ったばっかりの少年の頭みたいだったりする笑。





花とか、見てる時間て、早さが少し違うなと思う。
そこに展開されているミクロな宇宙に、吸い寄せられる感覚。

小さいとき、しょっちゅうこんな風に流れていた時間の感覚を思い出す。




ポピーの写真。手前が孵化しそうなつぼみくん。
暗いし、画質があんまり良くないので写真はあまりはっきり見えませんが、実物はもっと質感たっぷりです。

しかしながらこのポピー、どことなく艶めかしく感じられるのは私だけでしょうか。
いいなー笑

関係性の中にある

誰かを羨んだり、それでねたんだりすることは、自分のためにならない。
誰かに憧れることは、自分のためになる。その方が自分にとってずっとやさしい。



自分という存在は関係性の中にある。
生きとし生けるもの。
人や、動物や、建物や、空気や、水や、土や、木や、音…などなど。
だから、自分という存在は孤立できないし、自分の思ったとおりになんて、当然ことは運ばない。
関係性の中にいる自分には、何が起こるかなんてわかりっこない。ほかのあらゆるものが、動いている中で、そのすべてを予測することはできないから。

それと同時に、自分が何かをすると、それだけで世界は変わる。全部がつながった、関係性の中に自分がいるのだから。

自分が息をすれば、空気が振動する。
自分が歩けば、地面に音が響く。
自分が何かを伝えようとすると、誰かがそれに気づいて、何か返してくれるかもしれない。

自分のすることは、何かを変えている。
生きてるだけで、何かを創りだしてる。創り変えてる。


関係性を意識すると面白い。
「わたし」は「わたし」だけでいるわけじゃない、ということ。(当たり前だけど。)
「Aさん」は「Aさん」だけでいるわけじゃない、ということ。
「トム」は「トム」だけでいるわけじゃない、ということ。
でも、人はたまにそのことを忘れる。それで自分のことをせめて自暴自棄になったり、逆に、人にあたったり。

いろんな人やものと接して、たくさんの偶然を経て今の姿になったのが、この自分。
Aさんも、トムも、ぽちもタマもみんな。

そう考えると、面白い。
どの人もこの人も、面白い。

だから生きてることは面白いんだな~。

2009年1月21日水曜日

丁度よく、生きたい

生きる意欲って何だろう。
私は「生きたい」っていう気持ちが強い方ではないかと、自分では思っている。何というか、「生きてる」という生々しい感覚がほしいのだ。それがなかなかうまい具合に獲得できない。だからと言って、別に生きている感覚がないというのではない。ただ、どこかで、もっともっと有益に自分のいのちを使えるんじゃないか、というようなことを、思ってしまう。

色々なひとや、色々な物事に刺激を受けて、自分が目指すべき理想の自分というものが、どんどん変わるし、どんどん増える。欲望が強い人間だなーと思う。「丁度いい」という状態に至るのが難しい。自分の状態になかなか満足がいかない。ふらふらしてて、苦しい。

こんな私は、とてつもなくポジティブになるか、はたまたどん底までネガティブになるか、そのどちらかに向かうばっかりだ。

いつか私は「丁度よく」生きる術を身につけられるようになるのだろうか。

2009年1月18日日曜日

はじめて書きます

自分の中にうずうずとした何かがある時、自分がどうにもコントロールできず手に負えなくなるので何とかそれを言葉にすることで一時的な解決を試みる。楽しくて言葉にしたいときもあるし、楽しいなんて程遠い苦しさの渦中にいるときもある。でもとにかくそれを何とか言葉に変換して自分の中から出しておかないと気が済まないのだ。だから思ったこと、考えたこと、何だか知らないけれど言いたいこと、自分の頭や胸の中でぐるぐると渦巻いていること等を、私は表現する。表現することで何とかバランスをとって生きているような気がする。そういうわけでブログを開設してみた。別に自分のためだけの日記に書けばいいじゃんとつっこみたくなるけれど、たぶんどこかで自分を人にさらけ出し、反応してもらいたいという欲望があるのだろう、と思ったりする。


まだまだまだまだ、うまく言葉にして表現できていないと、いつも自分の力量の不足を感じてしまいます。