2009年6月28日日曜日

自由

ときどき

自分という存在にまつわるすべてのものから、自由になりたい、と思うことがある。

年齢、性別、出身地、血液型、身体的特徴、過去のできごと等々…



椎名林檎の歌詞にあったフレーズを思い出した。



「劣等感 カテゴライズ そういうの忘れてみましょう」


何が正しくて、何が優れていて、何故自分は生きているのか。


そういう答えのない問に疲れてしまったとき、
私には、意味を求めないものが必要だ。



芸術と呼ばれているあらゆる表現は、それに触れる者に価値判断を求めない。


音楽を聴いて、風に吹かれてしまえば、
束の間、善悪や意味、自分というものから、自由になれる気がします。

会えて、嬉しかった

今日、本当に久しぶりに、高校の頃の同級生に会った。

一緒に『レ・ミゼラブル』を公演した仲間たち。

私は皆に会うと、根底に「同志」という文字が浮かんでくるような、そんな感じを抱いてしまう。

久しぶりに会って、すごく幸せだった。

それぞれの道に進んでいて、それぞれ色々な苦労もしているようだけれど、

それぞれの「自分」を生きている感じが、あの頃と変わらないなあ、と思って、すごくうれしくなった。

みんなの元気な顔を見たら、何だかほっとして、ありきたりな表現だけれど、高校のときの感覚に戻ったような気がした。


高校に入学する前、自分の高校の体育祭を見に行って、チアが肩にのっかって、高い塔をつくって、そこからダイブしてそれを下の人が受け止めるなんてことをやっていて、棒倒しやら応援やら、その体育祭のものすごい気迫に惹かれて、「あーここだ!この一員になりたい!」と思って受験した。(だけど実際体育祭では三年間応援団に入った私)

私が高校で学んだことはあまりにも大きい気がする。
「学んだ」なんていうものではないかもしれないけれど、
とにかく毎日毎日、必死だったし、無我夢中だった。

燃えたぎるような高校生活が送れたこと。
日々の色んな悩みもたくさんあったけれど、
「生き抜いた」感がすごく、ある。笑

そんな日々を共に過ごして、そんな日々を一緒に作り上げた尊敬すべき仲間が今もこうして元気でいてくれること。


本当に幸せなことだと思った。


あの頃の延長線上を、みんなは生きている気がした。

すごい元気をもらって、私も頑張っていかな!と思った。

めちゃくちゃハングリーだけど、乙女な女の子たち★
(※共学だけれど、三年間女子クラス)

ありがとーーー

2009年6月24日水曜日

動機

以下は火曜に書いて、下書きのまま保存してあったので一応載せておこうと思う。

今日、「国際NGO発展論」の授業で先生は、援助の三類型に触れた。

1 人道系(主に緊急支援など)
2 農村開発など、長期型のもの
3 アドボカシー・政策提言


だいたいこの3つに分類できるのが、NGOの活動だということ。
これらはそれぞれ属する人のタイプが違う、という。そして私たち学生に、自分はどれにあてはまると思うかを先生は尋ねた。

困った。わからない…
「わからないです」と正直に答えたら、もちろん皆さんそれぞれどれも興味あるでしょうけれど、わからなくても言ってみて、とおっしゃた。
私は瞬時に考えて、自分は今は1か3だと思った。
そして3と答えた。

私はいつも、自分を分析する。

自分は、人の役にたっているという感覚がほしい=そう思えることで自分の存在意義を確認したい(1になるのかな)、もしくは、世界を自分の美意識に合うように変えたい、つくっていきたい(3になるのかな)。

そういうエゴイスティックで個人的な欲望が、NGOのような活動に携わりたい、根本的なモチベーションになっているのではないか、と。

「表面的」には、ひとの役にたちたい、苦しんでいる人や困っている人や辛い思いをしている人を、どうにか助けたい、とか、不条理で不平等な世界を変えたい、というように言いかえることができるかもしれない。

でも、深層心理は、上のような欲があるんじゃないかなあ、と思う。

つまりは、自分のためであり、辛い人や苦しい人に、自分を重ねて、「仲間」になってもらいたい、それで自分が救われたい、という感情があるんじゃないかと思う。

村上春樹さんが表現した「壁」(=システム)と「卵」(=個人)だったら、自分が卵でいたいし、卵でいることしかできない、脆弱な卵であることを自覚しているからではないか、と思う。

長雨

毎日色々なことを考える。

色んなものに興味があって、大変だ。

昨日は寝る前何故かすごく寂しい気持ちになった。ひどく疲れて、何も考えたくないような気持ちで、どうやってさまざまな矛盾やうまくいかないことに対する不満やいらいらや、一種の怒りのような、ストレスとして噴出してしまいそうな自分の中の感情を鎮めようかと考えていた。頭で考えすぎてしまうと駄目なので、好きな映画のYou Tubeを見ることにした。Dancer in the darkという、ビョーク主演の映画で、決してハッピーな話ではなく、むしろひどく不条理で悲しい話だけれど、曲がすごく良いし、映像も好きなので、惹かれてしまう。岡本太郎の言うところの、「きれい」ではなく「美しい」映画ではないかと、私は思う。岡本太郎は本の中で「きれい」の反対語が「美しい」だと言っていた。すごいことを言うひとだと思ったけれど、なんとなくわかる。きれい、と美しいは違うんだなあ。岡本太郎は今日の芸術は「きれい」でも「心地よい」ものでもいけない、と言っていた。「美しい」は、必ずしも「心地よい」ものではないのかもしれない。この映画だって、ひどく、ひどく悲しいけれど、セルマ(主人公)の歌が、すごく良い。病気で目が見えなくなっていく中で、同じ病気の息子の手術ために必死にお金を貯めて、でもだまされて信頼していた人に金を盗まれ、その人を殺してしまい息子を残して死刑を宣告される。悲しすぎるし、不条理すぎる。音楽とダンスだけが、輝きを放っている。

不条理だったり、善や悪といったものと、音楽やダンスは関係ない。そんなことを伝えているようにも感じる。とにかく、悲しいけど美しい。


寝る前、人間はみんなひとりで死んでいくんだ、とか、変なことを考えてすごく切なくなった。

自分の人生を考えると、ものすごい寂しさと、拠り所のない不安のようなものに駆られてどうしようもなく焦るときがある。

人生に限りがあるということを考えると、やりきれなくなるときがある。

そういうことを何とか誤魔化そうと、忘れて生きようとするのが、人間なのかもしれない。

理由もなく新しい世界を求め、刺激を求めて生きようとする。

2009年6月22日月曜日

どみんご*

*日曜(西)



むー。

曲がりなりにも週6で学校に通っていると、日曜が神様に感じる。

どわーっと、寝て、外出して、帰って早く寝たら良いのに、眠ることが好きなのに、寝たくなくなったりしてしまう。

何で睡眠が必要なんだろう、睡眠を欲しない体になりたい、などと、無謀なことを思う。

集中するまでに、エネルギーが充満するまでに、タイミングと、時間がものすごくかかるくせに、何かの拍子でそのエネルギースイッチが入ってしまうと、私は暴走し始める。そういう、現代の、時間や効率という概念と相反するこの自分という存在が、腹立たしくもあり、憎たらしくもあるけれど、一端そのエネルギー稼働時間に入ると、そういうことを忘れてしまうから、本当に困ったものだ、と後からじわじわ後悔する。入ってほしいときに入るように、コントロールできるのが、大人なのだとしたら、私は全然大人じゃない。そして何故だかわからないけれど、ただ日々の暮らしの中で無駄に苦しんだり悩んだり皮肉っぽくなってしまったりする頻度が高いから、好きなことをやっていそうな人であったり、ポジティブなオーラが出まくっているような人とお話すると、何だかとても心が潤い、ああ、良かった、と思う。


彼とぷらぷらしてカフェで地球の話したり(エントロピーなんちゃら)、好きなアーティストのHPを見て、かっこいい人って、何でかっこいいんだろう、と、無意味な問を立ててみたり、作家のブログ読んだり、電車でひたすら音楽聴いたり、好きなように、日々どうしても感じてしまう地球や世界や自分への悩み痛み辛み等々をなるべく忘れて、やらねばいけないとわかっている諸々のことを横に置いて、過ごす日曜という日。今のこの不安定な自分にとっては、たぶん貴重な時間なのだと思う。何も考えないに等しい時間がなかったら、私は一体どうなるのだろう。



霧雨に心洗われた日曜日。都会だってアジサイはきれいね。

何だか普段は理性ばっかり使っているから、感性を呼ぶ時間が必要なんだろうということを、学習しました。

よし、また色んなひとから色んなパワーをもらわせていただこー。

2009年6月14日日曜日

whatever is beautiful

なんか知らないけれど、もの書きたい神様が舞い降りてきてるみたいなので、今日はもう一個書きますー。
(あたしにはときどきやってくるいろんな神様がいるようです。多神教です。笑。神様じゃなくて妖怪か妖精でもいっか。よっ、ざしきわらし!みたいなね。)

美しいものを見たいんです。

美しいものが好きなんです。

何って具体的に言えないけれど、美しさってなかなかことばじゃ表現できない。

あっ、これ!

って思う、日常に潜んでいる風景とか。

見つけてしまったときには、それはもう、嬉しいこと嬉しいこと。


美しいもの、美しいことを見てるとき、聞いてるとき、感じてるとき、
自然と感謝したくなっちゃいます。

生きていくことって本当に過酷で、苦しいこともたくさんあるけれど、

そういう美しいものに出会ったときは、

やっぱりその瞬間生きていられて、ああ良かったな、と
思ってしまうのです。

だから、美しいものに出会うために、

自分は生きているのかも、しれません。




抽象的で主観的な独り言でした。

つくることって楽しいね

暑くなってきたなあ。夏がやってくる。

この季節になると、テストが近づいてきて、ばたばたしたりそわそわしたりしながら、テスト当日に誕生日を迎えたりしてたなあ。

23が近づいてくる…

次のぞろ目は33歳。

そのころ一体あたしは何者になってるんだろう。

でも、今はそれは考えないわよ。今を生きるのだ、うん。

それはそうと、
今日は学会→懇親会から帰ってきて、パソコンで名刺を作ってた。
今はテンプレートを無料ダウンロードして、PCとプリンタと用紙があれば、家で名刺が作れてしまう。

なんて便利なんでしょうね。

そして、作ってみたら、あら、楽しい。どうしよ~。
時間を忘れてやってたら、こんな時間…(だからルーズなんだわ。)

実を言えば、進路に死ぬほど悩んでいたとき、一時デザイン系の専門学校に行くことを考えていた…
イラストを描くことが昔から大好きだったし、表現したい欲求がずっとあった。

結果的にその道を選ぶことはやめたけれど、やっぱり、つくることって、すごく楽しい。

こだわりだしたら止まらなくなりそうだから、ほどほどにブレーキをかける。
本当はテンプレートじゃなくて、自分で絵描いたりして名刺を作りたいくらい…

絵の具で描いてデジカメで撮って、それを添付したら楽しそう。

一個じゃつまんないし、すごいシンプルだから、他のバージョンも時間のあるときを見つけて作りたいなあ。と目論み中。

名刺作りでこんな楽しんでる自分に驚き…

でもきっとそういうのやりだしたら本当に止まらないから、危ない。

あたしは昔から、「終わらせる」ことが苦手だった。

どこかで「終わり」にしなきゃいけないのはわかってるんだけれど。

だから、色んなことを完全に満足してやりきるってことが、なかなかわからない。

蛇足が怖いのかもしれない。

何より、頂点でなくちゃいけない、「終わり」というものが、未知すぎて、苦手意識がある。

だから、計画性もないし、いつも色んなことがぎりぎりである。
結局中途半端になって時間切れ、なんてのもしばしばある。

「終わり」を自分で決断できること。

それって、すごく大切な能力かもしれない、と思う。


ん、なんか脱線してる…


兎にも角にも、つくることって、すばらしい。



今日の学会は、発表聞いてるとき頭の中で音楽が鳴ってた。

昨日兄が夜ビョークのライブDVDを見てたからだっ。(人のせい。)

ビョーク大好きだから、いいけどね。

異文化コミュニケーションと音楽のコラボも、悪くないと思う。

て、何じゃそれ。

2009年6月10日水曜日

ムキにならないこと

いきなりだが、「ムキにならない」というのは、私にとっての課題である。

異文化コミュニケーション研究科に所属していることもあり、最近、コミュニケーションということについてよく考える。

私は、コミュニケーションていうのは、「痛み」を伴うものだと思う。

人とコミュニケーションする中で、違和感、それは何か違う気がする…と思うことがあっても、即座にそれに対してぶつかってしまったら、衝突や紛争になりかねない。

自分が、「痛み」を感じることは、大切だと思う。自分の内側に生まれた「痛み」を、外側に出して追いやってしまう、誰かにぶつける、というのではなく、自分の中で噛み砕き、消化するということ。

「痛み」だけじゃなくて、何だかもやもやとする感じだったり、腑に落ちないということだったり、そういうものに対して、自分が納得いかないというだけで、ムキになって反撃したり、あたったりしてはいけない、と思う。だからと言って、何も意見しない、ということではないけれど、ムキにならない、というところが重要だと思う。


「痛み」すら、吸収するような力が必要なのだと思う。

谷川俊太郎さんが、ある絵本の中で「こころを平和にする」という文章を書いている。

(その絵本は、谷川さんの詩と、イラクの子どもたちの描いた絵がのっている。)


「こころを平和にする」というのは、一生かかる難題だと、私は思う。

自分とは異なる他者とのコミュニケーションをする中で感じる「痛み」や「違和感」をも、噛み砕き、吸収すること。

それは「こころを平和にする」ことに、つながることかもしれない、と思う。


私はまだまだ、ムキになってしまう。

それかすごく悶々として凹む。笑


こころを平和に、近づけたいな。

2009年6月9日火曜日

田植えin埼玉県小川町

6月7日(日)、大学院のゼミの先輩のご紹介で、埼玉県小川町のかんぺー農園さんという有機農園の田植えイベントに参加してきました。



道すがら













小川町は有機農業で有名なところらしいです。
池袋から70分、すてきな田園風景が広がっていました。
そして太陽がぎらぎらと輝く夏のようなお天気。

この日はトータルで25名ほどの参加者が来ていたようです。
みんなで一列になって、一斉に稲を植え付ける。
ひもを田んぼのはしからはしへと渡して、そのひもに等間隔で結ばれた印の真下に稲を植える。
植えたらひもを動かす係の人の掛声で、ひもが前方へずれる。
そうやって、稲がだいたい等間隔で植えられるようにする。




田んぼへ入るところ




植えてます
























みんなでやる作業だから、テンポよくやらないと、だめなんですね~。(けっこう必死。笑)

都心に育った私は田んぼに入った経験がなかったから、初・田植え体験でした。
よろけそうになりながらも、ぬめっと足を包む田んぼの泥が、何とも気持ちいい。

ちょろちょろ動くものがいると思ったら、おたまじゃくしがいっぱい泳いでいました。あめんぼや、おそらくやごと思われる、半透明の小さいちょろちょろくんも。




お昼はこんなかまどで炊かれたごはん






と、カレー!






これは堆肥です。完全なる有機!
発酵しているため、60度以上の温度があるそうです。。すごいなあ、自然の力って…

















畑もありました



















三人娘













また行きたいです!
今度は収穫に…

2009年6月6日土曜日

音楽愛

音楽が好き。

これは一生変わらない気がする。

考えることにどうしようもなく疲れてしまったとき、辛いとき、気合を入れたいとき…とか、いろいろ。音楽が恋しくなる。ずっとずっとそうだったなあ。
音楽に救いを求めたことが、今まで何度あっただろう。

好きな音楽聴いてるとき、至福のときだ。

そんなこと言ってライブはそんなにたくさん行ったことないけれど、生って本当に良いんだろうな。何か、トリップしそう。

はー、NO MUSIC, NO LIFE.

2009年6月4日木曜日

考え続けること

「感じ、考え、想像すること。」
「考え続けること。」

学部のとき、同じ学科の友だちと立ち上げた有志団体Blue Birdsが、大切にしている理念。

平和や、社会問題に関心を持ち、それに対して何かしたい、と考えているという共通項があるけれど、メンバーはそれぞれ色々な分野に興味を持っている。紛争、戦争、環境問題、構造的暴力、人権、食等々のキーワード…国内外問わず、さまざまだ。
と言っても、バリバリの社会運動家、ってわけではなく、みんな、いわゆるフツウの女の子。
社会人、院生、学生、という多様性が、よいところ。

今、10月に、アートチーム・ピエロの筆とのコラボで、中高で授業をする企画が進行中だ。

その企画では、「大きな流れに流されるのではなく、自分の視点で物事を見極め、考え続ける」ということを伝えられたら、と思っている。「答え」は求めない。

具体的なテーマとしては、「誰でも、知らず知らずのうちに、戦争の担い手になってしまう可能性を持っている。また、戦争にNOと言えずに、戦争が起こってしまう可能性がある。」ということを伝えようということになった。

色々な事例を話し合ったけれど、特に、経済的な面での戦争への動因は怖い。

『ルポ 貧困大国アメリカ』という新書がある。

しばしば、問題として取り上げられることだけれど、アメリカでは、経済的に困窮している人びとが、学費を免除してもらえるとか、奨学金をもらえるとか、そういう理由で、軍のリクルートに応じ、入隊するケースが多いという。

たくみな誘いで、入隊してみたら、全く予想だにしないうちに、いつのまにかイラクに従軍することになり、心の傷を負って帰還するというケースもある。

新聞で最近目にしたのは、アメリカのアフガニスタン帰還兵のPTSD(心的外傷後ストレス障害)というものだ。イラク戦争のときも、全く同じような記事を目にした。
心身の傷を負った多くの帰還兵は、帰還後働くこともできない。戦場での記憶が、トラウマになり、子育てがうまくできなくなって、リハビリ施設に入った女性のドキュメンタリーを、以前に見たこともある。そのような帰還兵問題が最近取り上げられているのを、よく目にする。


アメリカには、民間軍事会社というものもある。これもまた問題だ。

民間の会社が、軍事を請け負い、従軍するのだ。

戦争の裏に隠された「経済」。

戦争を行うことで、儲かる人びとがいると同時に、経済的に苦しい人びとはいつのまにか、戦場へと送り出されるという構造。

格差が激しくなる日本で、2007年に、30代のフリーターの人が書いた、「希望は戦争だ」という趣旨の原稿が雑誌に掲載されたという事実もある。

困窮の中で、ひとは、判断する、ということが、難しくなってしまうのかもしれない。
そうするしかないのなら、自分だって、そういう状況に陥ったら、戦争や軍隊ということを考えないとは言い切れない。やりきれない感情や、どこに向ければいいかわからない怒り、理不尽だと思う気持ちを、そういうものに、向けてしまいかねない。

前者のアメリカ軍のリクルートに関しては、非常に、構造的な問題だと思う。

また、今は、水に代表される、資源収奪で、戦争や紛争が起こる可能性が盛んに叫ばれている。

いずれにしても、構造的な問題であると思う。

だから、その構造について学び、自分の視点で考えなければならない。

この世界には、全人口が満たされるだけの食糧を生み出すキャパシティーがあるというが、先日授業で知ったことであるが、日本は、世界の年間食糧援助量の、約3倍にものぼる食糧を毎年廃棄しているそうだ。


この世界の構造のゆがみ。
既に私は、その構造の中にいる。

だから、構造を理解し、考えなければいけない。そして、伝えないといけない。


「繰り返し、考え続けること。」
「戦争が嫌だ、と思っていても、自分だってそういう状況を意識的であれ、無意識的であれ、いつのまにか肯定してしまう可能性があること。」
「完全に、物事が元に戻せなくなる前に、そうなりそうな動きや兆候を感じとる感性を持って、自分の視点で物事を判断するように努力すること。」
「自分を含め、人間は弱いし、わかっていても、忘れっぽい。だから、なかなか自分で物事を見極めることはできないけれど、なかなかできない、ということを、自覚しておくこと。」

これは、戦争だけではなく、どんなことでも、言えることだと思う。
自分にも言い聞かせながら、私たちは伝えられたら、良いのかもしれない。



きっと、特に今の日本に必要なのは、そういう感覚であり、感性であり、「考える」ということ、なんだと思う。

※企画はまだまだ練っている途中です。ここに書いたことは、私の視点からの見解で、Blue Birdsという団体の見解というものではありません。

2009年6月3日水曜日

すごい音楽

今日、私がTAをさせていただいている授業で、ブルースの源流として、アフリカの音楽を聞いた。

フラフラ族という、何ともすてきな名前の部族の音楽らしかった。

それが、もう、ほんとに、かっこいい。

あのリズム感はなんだろう。あのサウンドは何だろう。

体が反応する。感性が覚醒する。

ものすごくノリたい衝動に駆られたけれど、TAとして最前列に座っている私、恥の文化が染みついてしまっているらしい、なんか、のるにのれなかった。(残念)

音楽って、いいな~。

キューバ音楽もすてきだなあと思うけれど、ブルースって、すごく色々な音楽の潮流を生み出した音楽。てか、キューバ音楽もその流れを汲んでいるのかな。

ロックだって、ジャズだって、ブルースがなきゃ生まれなかったってことだもんなあ。


抑圧の中から、発露された賜物。



矛盾や抑圧から、素晴らしい表現が生み出されるということって、多い気がする。

たくさんの表現を通して、ひとの魂に出会いたいな。