2009年2月24日火曜日

ことばは旬がいちばん

「ああ、この感じを、すごく言いたい」
「あ~、今!ひとに伝えたい」

そんな風に思った瞬間に書いたり話したりするのが、一番いいんだろうなぁ、と思う。
そういう瞬間と、言ったり書いたりできるタイミングが、ばちっと合うことって、稀な気がする。
合ったとき、私は嬉しくなる。

逆に、自分が発する側じゃなくて、受け取る側であっても、そう。

音楽や文章や情景が、「あー、今の自分に、ほんとにこれはぴったりくる!」っていうあの瞬間。

感動って、そういうものでしょうか。


先日、大学院の入試を受けた。
面接で、自分が考えていることを話さなければいけないのだけれど、自分の考えていることを、限られた時間のなかでひとに伝えるのって、本当に難しいなあと、改めて実感した。

妙にかしこまって真面目になってしまって、「お前、違うだろ、もっと自分が本当にこれから楽しみたいと思っていることを楽しく熱く表現すればいいじゃんか!」って、自分に突っ込みを入れた。

ね、ほんとにもう。

2009年2月19日木曜日

怒り

理性的に、現実的に、物事を考えられる力をつけたい。

怒りという感情は、ひとに何をもたらしてくれるのだろう。

兄は今日も仕事で夜中に帰宅した。
以前過労で体を壊した兄。
この二日間親が出かけているため私が夕飯を作っていたのだが、いつも母が兄を心配する理由がわかる気がした。
また体を壊すんじゃないか、とか。

再三、仕事の不平不満を聞かされるたび、私は正直嫌気がさす。
話を聞いて少しは元気になってくれればよいものの、できる限りこうしたらとか、思ったことを言ったり、相槌打ったりとかしても、全く納得しないどころか、逆に不満が増すかのように、ますますわけのわからんネガティブな理屈を並べられてどうしようもない。聞いている方が辛いし、辟易する。

もし彼が一人暮らしだったら、健康なんて保っていけないし、家事なんかやる暇ないだろうから、ろくな生活を送ることができないんじゃないか。

人間を正常にではなく、疲弊させる仕事。
何のための仕事なんだろう。
生きるための金を稼ぐ仕事で、心身を壊して、何になるんだろう。
私の兄は、氷山の一角に過ぎないと思う。
実際、学校の先生とかもそうだけれど、うつで休職とかする人が、今日本にはたくさんいる。

日本の社会はどこかで道を間違えたんだ、という思いが浮かばざるを得ない。
だけどマスメディアはやっぱりGDPの数値ばかりに一喜一憂してる。

どうにかしたい。
人と人、人と自然のつながりを感じられる社会にしたい。

2009年2月17日火曜日

無題

今、ことばにできない。表現できない。
自分の言ってることが、中途半端な感じで、全然満足できないから。
心から、楽しいと思うことをやっていないからだろうな。んー、きらっとしてない。

すてきなひとは、たくさんいる。
そういうひとからパワーをもらって、何とか日々をやっている。
すてきなひとが発する粋な感じ。あーかっこいい、あーすてきって思うあの感じ。

自分まだまだです。油断するとすぐ落っこちる。

あーすこぶるだめだなー…。

今日はもうおしまい。

2009年2月11日水曜日

身体と精神

先日、高校の友達が大学の有志で立ち上げた劇団のミュージカル公演を観にいった。
大学2年のときに一緒にミュージカル「レ・ミゼラブル」を再演した友達。(レミゼは高3の文化祭で公演した作品。)

高校や、大学2年のときの感覚を思い出した。
なんか、言い知れぬパワーをもらった。
ダンスや歌や演技をしているキャストみんなが、ほんときらきらしていた。

自分と照らし合わせて、あたしは頭でっかちになりすぎてしまったのだ、と思った笑。

それから、高校時代の、ダンス部に所属していたときのことを思い出したりした。
いつもいつも、ダンスが楽しかったというわけではない。高校までダンスの経験がなかったし、何しろ、自分に全然自信がなかった。ダンスというものは、(演技とかでもそうだと思うけれど)自分に自信がないと全然良いものにならない。というか、ばれる。「楽しんでない」「自信を持ってない」ということが、見ている人に伝わってしまう。「舞台」という場所は、嘘がつけない。見ているひとに、自分の全てをさらけ出すしかない。だからこそ、最高の自信を持ってのぞむために、たくさんたくさん練習する。

曲のテンポが速かったりすると、「こんな速いの踊れないよ…」と心の中で思って、なかなかできない自分を責めたりしてた。
でも、何度も何度もやって、体に覚えこませる。自然と振りが出てくるようになるまで、ひたすらやる。
それで、振りが自然に出てくるようになって、一緒のチームメンバーと合わせられるようになったとき、曲に合わせて踊れるようになったときの、あの感じは、何とも言えなかった。気持ち良かったなあ。。

最近、体と精神と頭って、すごくつながっている、と思う。(精神と頭を分けるべきかはよくわからないけれど)

頭ばかり使って考えていると、私の場合は、どんどん落ち込む。笑
さまざまな物事の意味とか、根拠とか考えだすと果てしない。「意味付け」「根拠付け」のスパイラルの中に迷い込んで、出口を見失って、自分がコントロールできなくなってしまう。

そんなとき、無心になりたいと思う。

(座禅とか、瞑想ってのは、きっとそういう役割を持っているんだろうなぁ、とか思う。)

ストレッチをしたりしていると、だんだん頭が縮小されていく気がする。
ただ、ごちゃごちゃと考えることもなく、気持ちいいなぁ、と感じる。
歌ったりしているときも、そう。笑

身体と精神は、すごく密接な関係にあるのかもしれないなあ。

2009年2月10日火曜日

教授くん

私は、教授くんを見ていると「このひと、禅を地で行く人じゃないか」としばしば思う。笑

正直。
裏表なし。
興味の範囲は、固定。
興味のないことは、目に入らない。
「そんなこと言ったっけ?」と、よく言う。
感情の起伏は、さざ波程度。
自分のペースが乱れない。
大概、早寝早起き。
基本的に楽天家。
お掃除好き。
基本的に、旅と本(漫画とお笑いも)。あと、写真。
黙っているときは、恐らく何も考えてない。
「何考えてんの?」「別に~。」「…。」
「何してた?」「何も~。」「…。」


そんな教授くんは、昨日22歳になった。

おめでとう。

教授くんは、このブログのアドレスを、知らない。笑

2009年2月7日土曜日

光陰矢のごとし

ちょっと書かない間にいろいろなことがあった。

2年間在籍したゼミを卒業した。

寂しかった。
別れとか区切りとか卒業とかっていうのは、いつも寂しい。
何とも切ない。

一番寂しいのは、皆と別れてひとりになった帰り道だ。
「実感」というものはこういうものだということに、そこで気づく。
何でもそうだけれど、本当に、なってみないとわからない。

3年生がプレゼントと追い出しコンパを準備してくれた。

嬉しかった。すてきな会とプレゼントをどうもありがとう。

こうして、ときは進んでいくんだなあ。

2009年2月3日火曜日

あのとき…

ふーう。今日は本を七冊持って歩きまわって、疲れてしまった。。
都会って、疲れるなぁ…笑

さっきテレビで、カナダのバンクーバーのドキュメンタリーで、ひとになついたシャチの話がやっていた。

私は、9歳か10歳かそこらの年齢のときに、家族でカナダに旅行に行った。(私の父は若いとき色んな国を放浪してて、所帯を持ってからも休みがあれば海外に行くという人であった。)

そのときのことを思い出した。

カナダには、見たこともないどでかい自然が広がっていた。私が小さかったからなのか。でも、本当にスケールが大きかった。

日本だったら、一大観光地であろう、澄みきった青い湖には、人っ子ひとりいない静寂。

町から見える雪をかぶった山も、とても美しかった。

どうしても、忘れられない。

私の中に、カナダの山や湖の風景と、その空気が染みついて離れなくなってしまった。
あのとき、早くも私は、自分が生きる上でのターニングポイントを迎えたのだと思う。

帰りの飛行機で、帰りたくないあまり、密かに半べそをかいていた。

何が言いたいとか、そういうことではないけれど、あの自然を感じたことは、とにかく衝撃だった。
世の中に、あんなところがあるなんて、全く考えもしていなかった。

私がidealistになった原因は、あのときにある、と思う。

2009年2月2日月曜日

不純な動機なのか

高校生のとき、自分が大学で学びたいことは何か考えていた。
そして漠然と出した答えは二つ、「芸術」か「国際協力」。

「芸術」は、実践するのではなく、詳しく学んでみたいと思っていた。絵や音楽を、鑑賞するのが好きだったからだ。

「国際協力」は、自分が毎日平々凡々とした生活を送っている一方で、戦争や貧困に苦しむ人びとがいるのは何故なのか、どうしてそのような状況があるのかということを、知りたかった。

私は二つを自分の中にある天秤にかけ、後者を選んだ。

国際政治を学べば、そういうことがわかるのかな…と考え、国際政治学を専攻した。

高校生のときは、本当に単純に、このようなことを考え、このような道を選んだのだ。


大学に入って、講義を受けたり、本を読んだり、イベントや講演会に出かけてみて、物事の善し悪しというのは、単純ではないのだということを、だんだん感じるようになった。

この世界の構造に対して、日本という国の、東京という大都市に生まれ育った私は、どうすることが正しいのか、何ができるのか。
東京生まれ東京育ちの私は、完全に、資本主義にどっぷり浸かり、生きているだけで、誰かから何かを奪っているのだと思った。
自分が生きるために必要なもの。資源や食糧。

学べば学ぶほど、考えれば考えるほど、本当にわからなくて、苦悩した。
自分の進路も、わからなくなった。志すべき方向が、わからなくなった。
そのうち、自分の生きる意味を問うようになった。毎日毎日、考え続けた。

今もその明確な答えはわからない。
でも、なんとなく、わかったこともある。

私は、子どもと自然とアート、そして、異文化が好きなのだ、ということ。

好きだから、感じたい、好きだから、まもりたい。
人助けとか、社会貢献とかがしたいというのではない。

変な言い方をすれば、むしろ自分を救いたいのだ、と思う。
それらと関わることによって、自分の欲望を満たしたいというだけのこと。

よく、発展途上国と呼ばれる国に行って、子どもたちと交流して、子どもたちは貧しいけれど笑顔が可愛くて、元気をもらった、とかいう感想を聞くけれど、正にそれ、だと思う。

何が人の役に立つ、何が人のためになる、という観点が、一番大切なのだから、それをわきまえなければならない、と思っていた。
国際協力に携わるための、論理的な根拠が必要だと思っていた。

でも、それを考え出しても、わからなくて、自分にできることの答えが見つからなかった。

私は、ただ単純に、自分の好きなものと関わっていたいし、自分の好きなものをまもる一員になりたいのだ、と思った。自分本位のエゴである。
自分の美意識に合った世界をつくりたいし、関わりたい、というエゴなのだ。

これは、国際協力に携わる、不純な動機なのだろうか。

2009年2月1日日曜日

今年の目標

昨日、新宿のとあるカフェでのとある怪しいパーティーで、国際NGO論のK先生とその仲間たち(?)と、仲間たちのそのまた仲間たちと色々お話をした。

K先生の直属のHさんとお話しているときにHさんは「やっぱ人間目標がないとあかん。」という発言をなさっていた。

「…だよなぁ。」と思った。

そんな私は、今年の目標を「等身大」と掲げていたのだけれど、もう一つ付け加えることにしようと思う。
それは「約束を守る」ということ。

これは簡単そうで簡単ではない目標だ。私にとって。
きちんと時間を守る。やると言ったことはやる。そういう社会の中で生きる人間の基本みたいなことに立ち返って、自分自身を戒める必要性をこの頃ひしひしと感じている。
そういうことを意識してやるようにしなければ、私という人間は自分自身が堕ちていってしまうタイプの人間なのだ。生きることを楽しむとか、そういうレベルではない。この、「約束を守る」ということは、約束の大小は色々とあるだろうが、自分にとってはこれができるかできないかは文字通り死活問題と言っても言い過ぎではない気がする。

私は、そういう人なのだ。
自分をゆるしたら、どこまでもゆるしてしまう。そして、それは自分の生を捨ててしまうことにつながる。

だから、「約束を守る」ことを肝に銘じたい。
ここに書いて、自分にプレッシャーを与える。

「等身大」でありつつ、「約束を守る」こと。

これはもしかしたら、トレードオフの関係なのかもしれない。

でも、努力しよう。

すてきです



すてき、です。