2009年4月29日水曜日

かっこよくなりたいんだ

かっこよくなりてえ。

と、すごい勢いで思います。

年をとるのが怖い。

と、無駄に焦りを感じます、このごろ。

保身に回らない、自分を規定しない、いつまでもぐるぐるし続ける、かっこいい大人になりたい、と心の底から思います。

そんなことを考えていると、毎日体も心も引きちぎれそうになります。

創造したい、表現したい、自分の思いをひとに伝え、分かち合いたい。

私の中の、欲望、欲望。

欲望は、原動力でもある。

それはひねくれてて、妖しくて、無限に続いてる、闇であり、光でもある。

生きているという感覚と表裏一体。

酷使してやる。

2009年4月28日火曜日

悩むことを選べ

胃が痛い。

実際に胃が痛んでいるわけでは実はないけれど、比喩的にそう表すのにふさわしい精神状態な気がする。

限られた時間の中で、自分は一体何ができるのであろう。
自分の時間のコントロールの下手さにうんざりする。
自分の考えていることを表現することの下手さにうんざりする。
色々なものごとに、私は時間がかかりすぎる。
当たり前だけれど、考えてしまうと行動は遅くなる。

何に捕らわれていて、私は苦しいのだろう。

誰に気を使っていて、自分のことを表現できないのだろう。

そんな気がしているだけで、ひとには伝わっているのか?

私は自分がそうだと感じる方向に、ひたすら歩いて行けば良いだけのことじゃないか。

批判を恐れずに、行けば良いだけのことじゃないか。


ときどき私は自分がとてつもなくずる賢い人間に思える。
自分は悩むことをやめて、ひとを利用して自分の幸福を追い求めて生きているだけではないか、と。
何も知らないような顔をしながら、自分は誰も傷つけていないかのごとく、のうのうと。

悩め、自分。

2009年4月26日日曜日

All I Need by radiohead

2008年にMTVが人身取引撲滅キャンペーンを行ったそうだ。それでradioheadのこの曲とPVが使われたみたい。

重いテーマだけれど、このような伝え方にひかれます。

2009年4月25日土曜日

コミュニケーションということ

コミュニケーションというテーマは、漠としているけれど、というか、何でもありと言えば何でもありな気がするけれど、本質的で興味深い。

本によれば「誤解」もコミュニケーションである、ということだ。
つまり、受け手に、送り手の何らかのメッセージやアクションの意図がうまく伝わらなかったとしても、それはコミュニケーションをしたことになるということ。

さらに、何もしなくても、それはコミュニケーションだという。
「沈黙」「存在」は、コミュニケーションだということ。

人は、「コミュニケーションをしないわけにはいかない」ということらしい。

じゃあ、生きることは、コミュニケーションするって、ことじゃないか。
すごく広義だなあ。


非常に簡潔なことでありながら、小難しく説明しているのが、何だか面白い、と思う。

ことばはときに、厄介だ。
ひとが経験する場で、ことばがない方が良いときも、多々あると思う。
ことば以外のコミュニケーションを、あるひとは「非言語コミュニケーション」と名付けたみたい。
この世界は、非言語コミュニケーションであふれてる。
というか、世界はコミュニケーションであふれてる。

「コミュニケーション」という考え方は面白い。

「ことば」というものへの興味は尽きないし、ある意味その対極に位置しているとも言える、ことばを発しない「自然」も、好き。

何で、日の光や植物の緑を美しいと感じたり、風が気持ち良いと感じたりするんだろう。

「コミュニケーション」は魔物だと、思う。

2009年4月24日金曜日

パーム油

大学院の授業で「異文化コミュニケーション論」というものがある。
なかなか哲学的な授業で、悶々とした空気が漂っている。
よくある答えのない議論。「日本人とは、誰のことか。」「日本文化とは何か。そのようなものは果たして存在するのか。」「文化とは何をもって文化なのか。」「日本=集団主義、アメリカ=個人主義というような、文化相対主義的な捉え方は、危うさがある。」等々。。



今日は「開発コミュニケーション論」という授業で、パーム油のことを扱った。

化粧品やシャンプー、石鹸や洗剤、そしてポテトチップスやカップラーメン、チョコ等の食品に使用されている植物性油脂の多くは、パーム油だという。

植物性なので、環境にやさしいというイメージで、日本ではよく知られている。

今日授業で見たビデオでは、マレーシアのボルネオ島で、パーム油のプランテーションによって森林伐採が進み、その森に生息する象の住処が減少し、パーム油の木の実を食べようとする象がプランテーションに入ってきてしまうことで、そのプランテーションで働く住民が困り、象を驚かせて追い払ったりしているという映像が流れていた。

またしても、知ってしまった、この構造。

「環境にやさしい」って、一体、何だろう。


そのビデオを見たあと、班でロールプレイをした。パーム油のプランテーション開発を行うための会議を行うという設定である。
開発賛成派は、マレーシア政府の役人の役、地元企業の役、開発地付近の先住民の役、日本の洗剤メーカーの役。
反対派は開発地付近の先住民の役、環境NGOの役。

それぞれの主張、論点があり、当たり前だけれど、なかなか結論は出ない。
私は日本の洗剤メーカーの役だったけれど、なかなか意見が言えない。自分の意見とは違う役をやるのはなかなか難しかった。

ボルネオは野生動物の宝庫だという。

私はまだ勉強不足だから細かいことはあまりわからない。

でも、持続可能な社会づくりという壁に、現在の社会、日本の社会、世界の構造がぶつかっているということは確かであろう。私はいつもそれを思っている。

ESD(Education for Sustainable Development;持続可能な開発のための教育)というものに興味を持ったのも、そのような関心からである。

知っていても、お腹がすけば、普通にチョコを買って食べる自分。(チョコは児童労働や、労働問題を孕んでいる可能性もある。)
この矛盾。

あたしは、今のところ、知らないふりをして、忘れたふりをして、生きるしかないのだ、と思う。

実際、フェアトレードの商品や、環境に配慮した有機の食品等は、値段も張る。

環境教育とかESDとか、言ってる自分は何なんだ、と思うけれど、

私はどうにか、どうにか、オルタナティブな世界をつくっていく一員になれたら、と

思っている。

たくさんの矛盾を、抱えながら。

2009年4月17日金曜日

帰るところ

この世の中に、好きな何かがある、というのは無条件に素晴らしいことだと思う。

どんなに小さくてもいい。自分はこれが「好きだ」と言える、何か。

仕事でも、趣味でも。
ひとでも、食べ物でも、音楽でも、風景でも。

話すことでも、歩くことでも、考えることでも、ぼーっとすることでも。

それさえあれば、そしてそれが自分の「帰るところ」となれば、

ひとは少なくとも、生きる歩みを止めないで歩くことができると思う。

2009年4月12日日曜日

書くぞ。

心動かされたことや衝撃、筆舌尽くしがたい感動、大小関係なく、いっぱい書こう。

私の人生は短い。

いつ終わるかわからない。

異文化の面白さも、すてきさも、自然の神々しさも、子どもの持つパワーも知ってしまった私は、

それを伝えないでどうする?

もちろん、まだまだまだまだ、知らないことだらけではあるけれど。

2009年4月10日金曜日

マザー

マザーのようなひとになりたい。。

マザーは、マザー・テレサ。

今、マザー・テレサの本を借りている。

私は自分のことをうまくコントロールできなくなったり、心の指針を見失いそうになったとき、マザー・テレサの本を読むことがある。

心を浄化したいと思う。

ごちゃごちゃに絡まってしまった頭の中のさまざまな考えを、
一度リセットして読むのだ。

マザーのような、ひとになりたい。

ぐちぐち

私は何故、頭を使い、理詰めで物事を喋り、判断し、批判を繰り返してばかりいる人のことを、よく思えないのであろうか。

私は、単純で、感情人間だと、自分のことを思う。

私は違いというものを認められていないのか。

感情だけであり、理念だけであるということの危うさも知っているはずなのに。


私は、行動する人が好きな傾向にあるらしい。

だから、働きかけないし、状況を変えようとしないのに、口で批判ばかりしている人は「うぅ~ん。」と思ってしまう。

て、それは兄なんですが。

少なくとも、私には兄がそのように見える。

この手に負えなさは、なかなか経験しないとわからないのではないかと思う笑。
何を言っても反論される。何を言っても納得してくれない。
会話になってないかも。

愚痴を書くと心が汚れていく気がするので、やめます…

でも、弱い私は、ときどき、書きたくなるのだ。

2009年4月8日水曜日

春に思う

人っていうのは、

生きること、生きていることの意味もわからずに、

ただ、

誰かに自分の存在を肯定してもらいたくて、自分の存在を必要だと感じてもらいたくて、

生きてる気がする。

それを意識するにせよ、しないにせよ。



人っていうのは、ひとりぼっちだ。

さみしさを、互いに埋めたくて、

社会ってものをつくる。

そういう生き物なんだ、と

思う。




桜の薄ピンクに、もう少しずつ緑が混ざってきた。

ぽかぽかとした春、冷たい冬を乗りきって一安心だけど、

日本ではほっとするよりそわそわする始まりの季節だ。


私は何だか、
このぽかぽか陽気と、自分のそわそわとした不安定な気持ちがちぐはぐで、

早く夏にならないかなー、と

好きな季節のはずだった春に

初めて思ったのだった。

2009年4月6日月曜日

牙をむく

昨日(正確にはすでに一昨日)、以前このブログでも書いたアートチーム・ピエロの筆と、Blue Birdsで立ち上がりつつある新企画に向けてのMTGを行った。

私が企画の意図として主張したことは、「普通のこと」だと言われた。マイナスの意味でだ。(少なくとも私はマイナスの意味として受けとった。)

確かに、そうかもしれない。

でも、私は、それを今だからこそ言わなければいけないのではないか、と思っていた。
本当に「普通」のこととして、現実に共有されていることなのか、という疑問がわいた。

それは、「自分という存在がかけがえのないものであるということを認めることで、他人という存在も同じようにかけがえのないものであるということを認める、ということ。」
「表現活動は、自分独自の価値観でいい、という思いを育てるのに、役立つのではないか」
すごく平たく言えばそんな感じだ。

確かに、そういうことを言う大人はたくさんいるように感じる。
環境問題なんかと同じように、きれいごとの謳い文句のような位置にあるかもしれない。

「心に響かない、届かないことば」のひとつになってしまっているかもしれない。

それは十分にわかっている。

でも、このような言葉を全面に押し出そうと考えていたわけでは決してない。
そんなことを全面に押し出されたらどん引きだってわかっている。
自分がもしそれを言われる立場だったら、「何、この人」と思うかもしれない。

要は、それをどう体をもって示せるのか、ということだろう。


ピエロのみんなが言うことは、いつもすごく腑に落ちる。
考えていることは、すごく似ていると思う。

彼らと自分の違いは、それを体現しているかどうかというところだ。

ピエロのみんなは、確実に体現している。
彼らの存在であったり、人間性であったりは、彼らのことばとなんら矛盾するものがない。
だからであろう。彼らのことばすっと聞いている人の体に入ってくる気がする。

ああ、書くと整理される。
もやもやとしたものが、なんとなく、クリアーになってくる。

私は、あまり人を嫌いにならない。そして、根拠があって批判するのとは違う、人の悪口は嫌いだ。
どの人も、それぞれ面白いし、すてきだと思うからだ。
「あの人は嫌だ」とか「うざい」とか、冗談じゃない感じで言ったり、そんなにはっきりではなくても、人のことを馬鹿にしたり、明らかに奇異な目で見たり、という人を見ると、何故そんなに簡単に人のことを侮蔑したりできるのだろう、と思い、悲しくなったりする。

好きなものを好き、楽しいものを楽しい、美しいものを美しい、悲しいことを悲しい、苦しいことを苦しいって言って生きていれば、いいじゃん。何で他人のことがそんなに気になるの、と思うのだ。

私はそういうことが目についてしまう。

でも、そういう「みんな違ってみんないい」みたいなことを言うのは、嘘つきで、自分の意見がなくて、八方美人だと思う人が多いのだろうな、と思う。

だけど、私は本気でそう思う。というか、そういう風にしか思えない。

ああ、何だかまたそれてきた…


桜がきれいに咲いているのを見るその瞬間は、無心になれる気がして、心がふっと楽になる。

今日のブログは、自分なりに、少しだけ牙をむいてみたつもりだ。