今年ももうすぐ終わる。
今、年の暮れに思うこと、それは「バランス」について。
幸せに生きる条件は、「バランス」だと思う。
時間の使い方、ひととの付き合い方、感情のコントロール、自己表現、あらゆる距離感。
あたしの生涯の目標は、たぶん、このバランス感覚なるものを、鍛え上げることにあるのではないかと思う。
Blue Birdsのメンバーを見ていて思う。みんな非常に、優れたバランス感覚を持っているなあ、と。
完全なあたしの私見ながら、そのバランス感覚は本当にみんな素晴らしく、友であり同志でありながら、とても尊敬してしまう。
きらきらとした未来が、垣間見える。そういうバランス感覚を持った子たちだと思う。
あたしは、バランス感覚に欠けた人間であると、最近よく思う。これは良い意味でも悪い意味でもないけれど、バランス感覚は、幸せに生きる条件だと思うので、そういう意味では、バランス感覚が欠けていることはよろしくないと思う。物事の加減というものが、どうにも下手すぎる。
自分で言うのもどうかと思うけれど、何かいつも、ひととの感覚のズレを感じることが多いし、どちらかというとあたしは芸術家肌なのではないかと思う。(繰り返しになるけれど、別に良い意味ではない。)
つまり、一般から、逸脱した感覚を持っている気が、何となくするのです。
必要以上に、深く考える。結果的に、優柔不断になり、決断力を欠く。
哲学を専攻した方が良かったのではないかという程、物事をいちいち根源的なレベルで考えてしまう頭でっかち人間。そして、自分とは何なのかという問ばかり考えている自我の肥大。
激しい凹凸の感情。アップなときは、気持ち悪いほどうきうきして、ユートピアの妄想したり。
ダウンなときは、そりゃもう、ひどい。
本当は、ひどく単純すぎる人間なのかもしれない。前近代的で、原始的な、感性人間。
けれどそれでは現代の世の中に合わないので、複雑な思考をするように、いつの間にかそういうくせをつけたのかもしれない。
感性と理性の両極端に引っ張られて、バランスをとることに疲れている。
疑問を持ち過ぎる。感じすぎるし考えすぎる。
そんな凹凸の感情のあたしは、気まぐれに人からのメールを返したり返さなかったりで、不義理をしてしまうこともあって、そんなときは、後から、本当に、大変、申し訳ないと感じる。
来年の目標は、自分の中のバランス感覚を養うことだ。
自分をコントロールできなくて、ひとの役に立つなんてできない。
ごく普通のバランス感覚、それこそ今一番大切なもの。
もやもやとした苦しみの根っこが、少しずつ少しずつ、わかってきたような気がする。
2009年12月29日火曜日
ひとの理想と、想像力
背伸びしていた。
無理をしていた。
そのままの自分を否定していた。
その感は今もぬぐい切れていない。
自由はどこかにあるのではなく、ここにあるはずなのだ。
(文字で書く自由は何だか薄っぺらい。)
一番自由なのは、頭の中だと思う。
人の頭の中はいつだって自由。
茫漠とした想像。
あたしは確信したんだ。
人の想像力の計り知れなさ。
ものすごい理想。ものすごい虚実。
生きる原動力みたいなもの。
人は関わり合って生きているから、
自分の頭の中で繰り広げられる想像を、戦わせることはナンセンスだと思う。
理想と理想がぶつかり合うときに、争いは起こってしまう。
こんな感じいいなと思う理想それ自体は崇高なのに、
それがぶつかり合うことは醜い。
だからやっぱり、想像力だ。
他者の理想への想像力。
無理をしていた。
そのままの自分を否定していた。
その感は今もぬぐい切れていない。
自由はどこかにあるのではなく、ここにあるはずなのだ。
(文字で書く自由は何だか薄っぺらい。)
一番自由なのは、頭の中だと思う。
人の頭の中はいつだって自由。
茫漠とした想像。
あたしは確信したんだ。
人の想像力の計り知れなさ。
ものすごい理想。ものすごい虚実。
生きる原動力みたいなもの。
人は関わり合って生きているから、
自分の頭の中で繰り広げられる想像を、戦わせることはナンセンスだと思う。
理想と理想がぶつかり合うときに、争いは起こってしまう。
こんな感じいいなと思う理想それ自体は崇高なのに、
それがぶつかり合うことは醜い。
だからやっぱり、想像力だ。
他者の理想への想像力。
2009年12月17日木曜日
理想の自分がどんな姿かなんて、まだはっきりわからない。
ぼんやりとなんとなく、こういう風になりたい、とか、こういう世界に携わりたい、と思うけれど、それがピンポイントで明確なわけじゃない。
だけど、何となく、自分の中にある野心のようなものを捨てたくないな、と思う。
あたしは、強く思う。「世界」とつながっていたい、と。
そして、自分の目を、心を、ごまかしたくない、と。
抽象的だけれど、そう思う。
学べば学ぶほど、わかるこの世界の歪み。モノに溢れた「豊かな」生活の裏、もしくは、延長線上にある圧倒的多数の貧困や争い。汚染。
この、世界のおかしなあり方の根源にあるキーワードは、「近現代」だということを、最近よく思う。
「近現代」という時代のことを、もっともっと知らなければいけないし、考えなければいけない、問い直さなければいけないと思う。
あくまで冷静に、陶酔なんかに浸ることなく。
あーーーー。
伝えたい、伝えなきゃ。
おかしいことには、おかしいと言っていかなきゃ。
そして何より、変えるために、行動し、実践し、示していかなきゃ。
今は、物事を見誤らない訓練期間。
そして、伝えること、実践すること、その技術を覚えるステップアップが次に来る。
気持ちは焦るけれど、
経済的に自立をしなければ、あたしはモノが言える立場にはなれないので、
まずは唇噛みつつ、我慢して、
経済的自立と、社会を知るための就職だ。
資本主義にどっぷり加担はご免だけど笑、上記の目的を果たすために、まずは飛び込むしかない。
NGOだって何だって、まずは実務経験。
それから、やりたいことを、やりたいように、やりたいだけがむしゃらにやるのです。
行きたいところ、見てみたいものだって、たくさんたくさんたくさん、あるし………。
と、こんなこと書きつつ、ニッチを探して非営利団体とかばかり、受けたりして。。。
日本出ちゃったりして。笑
それはないかー。
ぼんやりとなんとなく、こういう風になりたい、とか、こういう世界に携わりたい、と思うけれど、それがピンポイントで明確なわけじゃない。
だけど、何となく、自分の中にある野心のようなものを捨てたくないな、と思う。
あたしは、強く思う。「世界」とつながっていたい、と。
そして、自分の目を、心を、ごまかしたくない、と。
抽象的だけれど、そう思う。
学べば学ぶほど、わかるこの世界の歪み。モノに溢れた「豊かな」生活の裏、もしくは、延長線上にある圧倒的多数の貧困や争い。汚染。
この、世界のおかしなあり方の根源にあるキーワードは、「近現代」だということを、最近よく思う。
「近現代」という時代のことを、もっともっと知らなければいけないし、考えなければいけない、問い直さなければいけないと思う。
あくまで冷静に、陶酔なんかに浸ることなく。
あーーーー。
伝えたい、伝えなきゃ。
おかしいことには、おかしいと言っていかなきゃ。
そして何より、変えるために、行動し、実践し、示していかなきゃ。
今は、物事を見誤らない訓練期間。
そして、伝えること、実践すること、その技術を覚えるステップアップが次に来る。
気持ちは焦るけれど、
経済的に自立をしなければ、あたしはモノが言える立場にはなれないので、
まずは唇噛みつつ、我慢して、
経済的自立と、社会を知るための就職だ。
資本主義にどっぷり加担はご免だけど笑、上記の目的を果たすために、まずは飛び込むしかない。
NGOだって何だって、まずは実務経験。
それから、やりたいことを、やりたいように、やりたいだけがむしゃらにやるのです。
行きたいところ、見てみたいものだって、たくさんたくさんたくさん、あるし………。
と、こんなこと書きつつ、ニッチを探して非営利団体とかばかり、受けたりして。。。
日本出ちゃったりして。笑
それはないかー。
2009年12月11日金曜日
2009年12月2日水曜日
未来志向、思考。
最近なかなかブログを書く時間がとれなかった。日々思うこと、考えることを「書きたい、書きたい」という気持ちはあったのだけれど、その頭の中にあるものを言語化する前に、体が「お休み」信号を出してしまっていたのである。たいていは、ブログを書く時間より眠る時間をとったということだ。
気がつけば、もう師走。イチョウもすっかり、黄色い。
今日は、ESD(Education for Sustainable Development)論の授業で、事例を発表するために、新宿の大久保にある小学校にお話をお聞きしに行った。大久保は外国人が多く住む街で、その小学校は外国籍の子どもが多く通うので、言語や文化と教育という問題から、多文化共生といった視点で注目されることが多いけれど、地域とのつながりや環境という観点から、総合的な学習がESDの事例としても捉えられる実践的な授業がなされた小学校なのだ。
詳しい授業内容は割愛するけれども、この小学校の向かい側には「小泉八雲公園」という公園があり、(小説家の小泉八雲/ラフカディオハーンが、かつてこの街に住んでいたことにちなんで、記念の公園のような形になっている)その公園の花壇へお花を植えることや、小泉八雲の銅像をきれいにすることを、この小学校の子どもたちが参加して行い、フクロウをモチーフにした記念オブジェと碑を建てたのである。地域住民や区役所の職員、そして大学でコンクリートの研究を行う専門家をも巻き込んで、このプロジェクトは子どもたちが主体的に参加して進行していったそうだ。
そして今日はこの授業をファシリテートされた先生にお会いし、お話をお伺いした。
まず、とても熱い。とにかく熱い先生だった。
先生のお話の教育論が印象的であった。子どもが学びの主体である、ということ。授業というのは、先生と子どもが相互に学びあう場だということ等々。
そして、総合的な学習の中で行われたこのプロジェクトの、結果より大切なのは、プロセスだということ。
子どもたちが、自ら、今目の前で起きている地域の環境問題、社会問題に「気づき」、「考える」、ということ。
何をやったか、という「結果の大きさ」ではなく、大切なのは、「自分たちで社会に働きかける行動を起こすことができる」ということを「実感」できるということ。そのようなことを、先生は強調しておられた。
(BlueBirdsの活動の中で、まさに私が感じたことだなあ、と思った。)
このような、「プロセスを重視する」とか、用意された解答を覚えたり、知識を詰め込むのではなく、自分たちの身の回りで起きていること、教科書に書かれたことではなく「今」「そこで」起きていることを考えるというようなことは、皆ESD的な学びの要素であり、従来の学校教育へのアンチテーゼとも言える。
今、教育の場にも、社会にも、必要とされているのは、このような、自分たちでアイデアを生み出す創造性であったり、上意下達ではなく相互に対話する姿勢であったり、身の回りや世界のことと自分を「つなぐ」ということであったり、人とつながって何かをすることではないか、と本当に思う。
今までバラバラだったものがつながり直す、ということがとても大切ではないかと思う。
政治でも、縦割り行政の問題点はよく指摘されるけれど、縦割り、ではなく、横につながること、が必要だと思う。
学校と地域と行政、NPO/NGOと企業、大学(研究)とNGO/NPO(実践)、等々…
教育の中身も、教科横断的な学び、というものが求められてる、と思う。
それを意図して創設されたのが「総合的な学習」の時間だけれど、今日お話して下さった先生は、また総合学習の時間が減らされるということでがっかりなさっていた。ESDのような学びが日本に広まれば、日本の教育はとても良くなると思うけれど、現状を考えると非常に悲観的だ、と。
先生の、現場主義、私はそこから、社会から見落とされがちだけれど、とても重要なものを感じた。当たり前だけれど、現場が先にあるのだ、というシンプルで、一番大切なこと。
ともすると「誰かの言葉」で語られた二次的、三次的な情報で物事を判断してしまいがちな危うい自分に気づき、はっとさせられた。わかっているけれど、「知ったかぶり」は簡単にできてしまうから、恐ろしい。違うよ、違う。やっぱり「現場」が先だ。
二度と同じ授業はできるものではない、と先生はおっしゃっていた。その言葉に、「現場」の意味は凝縮されているような気がする。
画一的なマニュアルが先にあるのではない。理論が先にあるのではない。
誰もが答えを持たない、さまざまな問題を社会が抱えている今日、「解がわからない」という点で、誰もが同じ立場にあるのではないかと思う。
でも、だからこそ、ひとりひとりが知恵を出し合うことが必要であり、相互に対話し合い、つながり合うことが、必要なのだと思う。完璧な理論もマニュアルも誰も持っていないけれど、課題という現場があり、その現場現場で、それぞれの人間が悩み、考え、人びとが話し合って知恵を出し合い借り合い学びあって、試行錯誤して進んでいく、そういうときなのではないか。
そんなことを考える、今日この頃。
ああー、書ききれない。笑
うまくまとまらないけれど、「つながり」「対話」とかって、ホント、キーワードだと思う。
その大切さを、最近よく実感する。
何で大学院の授業は面白いのだろう、と考えたとき、顔の見える距離で先生や他の受講者の意見を聞いたり、交換し合えるということが、大きいのではないかと思ったのだ。私は、そのように、きちんと自分の意見を言い、聞いてもらい、他の人の意見を聞く、という経験が、今まで少なかったのかもしれない。だから、刺激的だし、学ぶことが、とても多いのだ。そして何よりそういう場は、楽しい。
大きい声を出せる人の意見が通ったり、誰かの意見が排除されるのではなく、そこにいる人が皆ほぼ対等な立場でお互いに意見を言い合えるというのは、それだけで、何か創造的な場であり、「癒し」とでも言えるような効果が、人と人の間に生まれるような気がする。もちろん、人の意見にきちんと耳を傾ける、という倫理的な姿勢が欠けてしまっては成り立たないけれど。
ああ、書ききれない……笑笑
いつの間にか真夜中になってしまったので、また改めて、いろいろ書きたいと思う。
まだまだ、たくさんあるのだけれど…。
気がつけば、もう師走。イチョウもすっかり、黄色い。
今日は、ESD(Education for Sustainable Development)論の授業で、事例を発表するために、新宿の大久保にある小学校にお話をお聞きしに行った。大久保は外国人が多く住む街で、その小学校は外国籍の子どもが多く通うので、言語や文化と教育という問題から、多文化共生といった視点で注目されることが多いけれど、地域とのつながりや環境という観点から、総合的な学習がESDの事例としても捉えられる実践的な授業がなされた小学校なのだ。
詳しい授業内容は割愛するけれども、この小学校の向かい側には「小泉八雲公園」という公園があり、(小説家の小泉八雲/ラフカディオハーンが、かつてこの街に住んでいたことにちなんで、記念の公園のような形になっている)その公園の花壇へお花を植えることや、小泉八雲の銅像をきれいにすることを、この小学校の子どもたちが参加して行い、フクロウをモチーフにした記念オブジェと碑を建てたのである。地域住民や区役所の職員、そして大学でコンクリートの研究を行う専門家をも巻き込んで、このプロジェクトは子どもたちが主体的に参加して進行していったそうだ。
そして今日はこの授業をファシリテートされた先生にお会いし、お話をお伺いした。
まず、とても熱い。とにかく熱い先生だった。
先生のお話の教育論が印象的であった。子どもが学びの主体である、ということ。授業というのは、先生と子どもが相互に学びあう場だということ等々。
そして、総合的な学習の中で行われたこのプロジェクトの、結果より大切なのは、プロセスだということ。
子どもたちが、自ら、今目の前で起きている地域の環境問題、社会問題に「気づき」、「考える」、ということ。
何をやったか、という「結果の大きさ」ではなく、大切なのは、「自分たちで社会に働きかける行動を起こすことができる」ということを「実感」できるということ。そのようなことを、先生は強調しておられた。
(BlueBirdsの活動の中で、まさに私が感じたことだなあ、と思った。)
このような、「プロセスを重視する」とか、用意された解答を覚えたり、知識を詰め込むのではなく、自分たちの身の回りで起きていること、教科書に書かれたことではなく「今」「そこで」起きていることを考えるというようなことは、皆ESD的な学びの要素であり、従来の学校教育へのアンチテーゼとも言える。
今、教育の場にも、社会にも、必要とされているのは、このような、自分たちでアイデアを生み出す創造性であったり、上意下達ではなく相互に対話する姿勢であったり、身の回りや世界のことと自分を「つなぐ」ということであったり、人とつながって何かをすることではないか、と本当に思う。
今までバラバラだったものがつながり直す、ということがとても大切ではないかと思う。
政治でも、縦割り行政の問題点はよく指摘されるけれど、縦割り、ではなく、横につながること、が必要だと思う。
学校と地域と行政、NPO/NGOと企業、大学(研究)とNGO/NPO(実践)、等々…
教育の中身も、教科横断的な学び、というものが求められてる、と思う。
それを意図して創設されたのが「総合的な学習」の時間だけれど、今日お話して下さった先生は、また総合学習の時間が減らされるということでがっかりなさっていた。ESDのような学びが日本に広まれば、日本の教育はとても良くなると思うけれど、現状を考えると非常に悲観的だ、と。
先生の、現場主義、私はそこから、社会から見落とされがちだけれど、とても重要なものを感じた。当たり前だけれど、現場が先にあるのだ、というシンプルで、一番大切なこと。
ともすると「誰かの言葉」で語られた二次的、三次的な情報で物事を判断してしまいがちな危うい自分に気づき、はっとさせられた。わかっているけれど、「知ったかぶり」は簡単にできてしまうから、恐ろしい。違うよ、違う。やっぱり「現場」が先だ。
二度と同じ授業はできるものではない、と先生はおっしゃっていた。その言葉に、「現場」の意味は凝縮されているような気がする。
画一的なマニュアルが先にあるのではない。理論が先にあるのではない。
誰もが答えを持たない、さまざまな問題を社会が抱えている今日、「解がわからない」という点で、誰もが同じ立場にあるのではないかと思う。
でも、だからこそ、ひとりひとりが知恵を出し合うことが必要であり、相互に対話し合い、つながり合うことが、必要なのだと思う。完璧な理論もマニュアルも誰も持っていないけれど、課題という現場があり、その現場現場で、それぞれの人間が悩み、考え、人びとが話し合って知恵を出し合い借り合い学びあって、試行錯誤して進んでいく、そういうときなのではないか。
そんなことを考える、今日この頃。
ああー、書ききれない。笑
うまくまとまらないけれど、「つながり」「対話」とかって、ホント、キーワードだと思う。
その大切さを、最近よく実感する。
何で大学院の授業は面白いのだろう、と考えたとき、顔の見える距離で先生や他の受講者の意見を聞いたり、交換し合えるということが、大きいのではないかと思ったのだ。私は、そのように、きちんと自分の意見を言い、聞いてもらい、他の人の意見を聞く、という経験が、今まで少なかったのかもしれない。だから、刺激的だし、学ぶことが、とても多いのだ。そして何よりそういう場は、楽しい。
大きい声を出せる人の意見が通ったり、誰かの意見が排除されるのではなく、そこにいる人が皆ほぼ対等な立場でお互いに意見を言い合えるというのは、それだけで、何か創造的な場であり、「癒し」とでも言えるような効果が、人と人の間に生まれるような気がする。もちろん、人の意見にきちんと耳を傾ける、という倫理的な姿勢が欠けてしまっては成り立たないけれど。
ああ、書ききれない……笑笑
いつの間にか真夜中になってしまったので、また改めて、いろいろ書きたいと思う。
まだまだ、たくさんあるのだけれど…。
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