私の目は、海外ばかりに向いていた気がする。
小さい頃から、海外への放浪癖のあった親(特に父)によって、色んな国に連れて行かれた。(敢えて「連れて行かれた」という表現を使うのは、幼かった私の意思とは関係なく、正に「連れて行かれた」と感じたからだ。)
当時は、必ずしもそれが楽しいことや嬉しいこととは思えなかった。地元の友達と、狭い地元の世界で遊んでいる方がよっぽど良いという気持ちもあったし、友達と話が合わなくなるのが、何より嫌だったからだ。「海外に行った」という経験談が、自慢のように思われるのがすごく嫌だった。(ちなみにうちはそんなに高い旅行はしない。)だから友達に海外へ行ったときの話はあまりしなかったし、できなかった。敢えてそういうことは言わず、どちらかというと隠してきた。
でも、私は今になって思う。小さい頃からの、異文化体験は、確実に今の自分のアイデンティティに影響を与えている、と。
日本で見たこともないような美しい自然や動物も見たし、日本では感じたことのなかったような違和感や怖さも感じた。
そんな経験をしてきた私にとって、海外に関心を持つことはごく普通のことであった。
だから、国際協力をしたいと思ったのかもしれないし、いわゆる開発途上国と呼ばれる国々での、持続可能な開発、とは何なのか、興味を持った。
けれど、私は最近思う。
自分は日本のことを何も知らない。
生まれてこの方ずっと東京という都市で育ってきた私は、日本の地方にすら、住んだことがない。
私はごく狭い世界で、ごく狭い「暮らし方」しか、知らないのだ。
「暮らす」というのは、本来もっと時間や労力を費やすはずのことだ、と私は思う。
エネルギー、食糧、全てを地方に供給してもらっている東京という都市の暮らしは、何かがおかしいに決まっている。
「暮らす」ための時間は、「稼ぐ」ための時間に取って代わられている。
そして毎日、プラスチック容器に入った食糧を消費して、大量のごみを出し続けている。
私には、もっと知らなければならないことがたくさんある。
いつか、東京を出ようと思う。
自分の生活にとっては普通のことが他人にとっては自慢になって、それが相手に負担がかかるのであるなら、それは言わないという選択って自分もあるのでよく分かる気がする。自分を隠すことで思いやる感じがする時は、自分でも後味が悪いので隠さないようになったけれど。人と違う体験をするってことは、他人から見て、他人との調和を乱すように感じられることもあるっていうのは、なんだか大変だよね。
返信削除さて、フルブライトで留学を勝ち取った知り合いがいて、その人いわく、自分は学力やそれまでの功績という点では他の候補者に負けていたかもしれない。だが、それでも尚、奨学金を得ることができたのは、自分は日本史が好きで日本のことに詳しかったからかもしれない、といっていました。
ところで、私は海外放浪癖は無いけれど、国内放浪体験は結構あります。北は、青森から、南は沖縄まで、学部生の時代は時間を見つけては出かけていました。そこで出会う人たちに沢山のことを教えてもらいました。インタビューやルポルタージュを書く経験は、これらの体験から学ぶことができたのだと自画自賛。。。
文化は比較することでその本質が現れる。そんなフレーズを異文化に関する書籍で読みました。比較する基準が多ければ多いほど、他人のアインデンティティに触れ、自分を理解できると思う。まずは、身近な、自分や東京やそれ以外の地方という点から、国際協力を考えて見るのもいいのかもしれないね。地方の疲弊した集落で困っている人たちだってたくさん居るわけで。
なんか取り留めのないうっとおしい文章になったのでこの辺で。