2009年5月4日月曜日

神さまのはなし

何か、すごいタイトルつけたな~って、思う笑。

「原罪」という、キリスト教の考え方が、あると思います。
ひとは罪を持って生まれてきて、イエスはその罪を購うために十字架にかけられた、という話。

私は、何か宗教を信仰している身ではないけれど、
何だかこの考え方に、自分は近いような気が、ときどきする。

自分は、罪深い存在だ、と。

ひとを傷つけ、踏み台にし、あたしの消費する食物やものによって、どこかのだれかが傷つき、苦しんでいる。

何だか、その思いは、絶対に消えることはない気もする。

けれど、どう生きるべきか、ずっとこれからも考え、悩み続けていくことを、したい。

私は弱い人間だから、ときどき神さまがいればいいのに、なんて思う。

そしたら、ほんの少しは、気が楽になるのかな、とか思う。
その神の基準で行動すれば。

だけど、あたしには今のところ、神さまはいない。

だからあたしは、これからも生まれた意味や、存在意義や、自分というアイデンティティについて、常に考えていくのだろう。

何が最善で、何がいけないのか、常々ずっと、自分の頭で考えていくのだろう。

そのプロセスは終わらないし、終わらせてはいけない、と思う。

2 件のコメント:

  1. キリスト教的教育で育った私にとっても原罪や贖罪といった考え方は、
    違和感なく受け入れられますよ。
    自分と他のヒトや生き物とのつながりを意識すれば、
    世界の悩みごとや争いの大部分は消えることでしょうに(仮定法)、
    とまでおもっています。。。

    一方で、自分とottiさまの考え方の違いで際立つ点は、生きる意味や存在意義について。
    生きている以上自分がやるであろう行動における社会的意義に関する事柄については、
    しっかり考えてしまうのだけど、生きる意味や存在意義についてはあまり考えた事がないんです。
    使命感をもつとゆるーく生きられないからかな(笑)

    神を信じると、気が楽になって、幸せに生きられる部分ってあるよね。
    でも私の場合は紙という存在に依存的になってしまうので肌に合わないのかなとも思います。

    ・・・そういえば友達の家にいきなり外国人から電話がかかってきて、ヒトコト、
    「あなたは神を信じますかぁー?」と言われた話を何故か思い出しました^^

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  2. オレはずっと小さいときから、教会に通っていたよ。だから、神の存在に対しては、いると思ってる。自分が今ここにいることは、神が与えてくれた道なんだって考えたりする。でも、ここにくるまでにも様々な挫折を味わってきて、神なんていない って思ってた時期だってある。でも、今考えればちゃんと自分のやるべきこと与えてくれた。都合良すぎだなぁって思うけどね(笑)だから、神が与えてくれた道に、自分がどれだけ努力して成果を残せるか ここが重要だと思う、そうすればまた新しい道をつくってくれるのだと俺は信じたい。
    毎週毎週、地元で通ってた教会でオレのために祈ってくれている牧師先生や家族、友達がいるって考えると ガンバろって思います。
    今度、チャペルにでも行ってみようかなぁ^^

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